0369_ドゥームスクロールによってもたらされるネガティブ感情の嵐に対して

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山に籠って祈りに専念したい?

クリスチャンとして日々成長したいと思っていますが、ネガティブ感情のボディーブローをおもいっきり食らった時や自身が間違った意思決定をしてしまったりすると、一歩進んで二歩下がっているような信仰の歩みになっているか心配になります。もしかしたら、山に籠って祈りに専念して霊的な戦いをするように神様に召された人もいるかもしれませんが、大部分の人はこの社会の一員になり、そこで信仰生活を送るように召されていると思います。

人の間で生きていると、様々な摩擦、軋轢がいやおうなしに起こってくるので、心が強烈な嵐に見舞われたりします。それだけでなく職場の人間関係の悩み、経済的な不安や将来に対す失望、あるいは、ドゥームスクロールによってもたらされるネガティブ感情など、あらゆるものが信仰の土台を思いっきり揺さぶってきます。

イエス様の生き方

こういった摩擦や軋轢、不安などがない世界でイエス様と生きれたらどれだけ素晴らしいだろう!と思います。聖書に登場する失敗した人たちも、人の間で生きて、摩擦や軋轢や恐怖の中にいましたし、ある人達は権力を手にしたがゆえに失敗しました。彼らかて、もし人の間で生きておらず、山に籠って主と共に生きていたら、失敗することなくこの地上での生活を全うできたと思います。

しかし、はっきりとわかっていることはイエス様が「しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。ルカ13:33」とおっしゃったように、主がいるところについていかないといけないのです。ましてや聖い神の子なるイエス様がこの罪深い汚れた世の中で33年間も生活されたように、人の間で生活することが神様の御心なんだと思います。

レベルアップするために

その中でも幸いなのは主がそこにおられるという事実です。様々な摩擦、軋轢、恐怖、不安、悩みの中にいる僕たちと主は共にいてくださるのです。そして、自身の価値観と世の中の価値観との戦いの中で、信仰はいよいよ精錬されて燃えても消えて無くならない金のような信仰が磨き上げられていくのだと思います。

もし、この社会での戦いがないと、自分の信仰が本物かどうかもわかりません。自分では「イケている」と思っている信仰も、試練にあった時に、実は使い物にならなかったということもありうると思います。

そういう意味では、日々の試練は自身をレベルアップさせてくれる経験値ととらえて、様々な問題が起こってきても主とともに乗り越えていきたいと思いました!

おっさん
■日々の生活の中で、摩擦、軋轢、恐怖、不安などの嵐が巻き起こってくるのは避けられない
■そういったものから逃れて、主とともにゆっくり人生を過ごしたいと思うときもあるかもしれない
■しかし、主ご自身がこの世で生活され、主は一つの場所にとどまることをしなかった
■だから、もし恐れず主についていくならば、様々な試練を通していよいよ信仰が練られることだろう

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