自分に頼っては主を愛することすらできない
ここ数か月僕は自身の信仰生活においていくぶん気が楽になりました。その理由としては、自分に頼っては主に対して真実であり続けることすらできないということがわかったからです。自分に頼っては主を愛することすらできないのです。これは言いかえれば自分の肉によっては、主に対して真実あることも主を愛し続けることもできないということです。
それはペテロも同じでした。彼は誰よりも主を愛していました。そして、主と共に死ぬとまでイエス様に誓いました。しかし、結果は壮絶なものでした。彼はイエス様に対する真実を突き通すことも愛し続けることもできなかったのです。それは肉によって主を愛することの限界を教えてくれています。
自身の肉においては
人間的な目で見るならば、新約聖書はパウロの書であってペテロの書ではないかもしれません。なぜなら、ペテロに関する記述はほとんど福音書と使徒行伝の前半と一部書簡だけに集約されており分量的に多くないからです。福音書はペテロの肉にとってはつらい書物であったかもしれません。なぜなら、4つの福音書すべてに主を裏切った事実が記載されているからです。
しかし、それは決してペテロを不利に落とし入れるために書かれたのではありませんでした。すべての人間がペテロと同じように自身の肉においては主に真実を貫き通すことも愛することもできないと教えてくれているからです。
僕は福音書時代のペテロとは違って、聖霊の時代に生かされているにも関わらず、主を裏切ることを何度もしてきました。だから、僕の生き方こそが主の前に恥ずかしいものなのです。
われらのちりである
聖書はこのように言っています。
主はわれらの造られたさまを知り、
われらのちりであることを
覚えていられるからである。
詩篇103:14
僕はいつしか、自分の信仰を誇っていたのだと思います。しかし、聖書ははっきり言っています。それは僕がちりであるということです。
僕は大人になるにつれて、主にあって次第にいろいろなことができるようになり、いろいろなものを所有していく中で自分が何者かであると大いなる勘違いをしていたのでした。そして、一度そうなると自分の信仰は自分の力で守らないといけないと思うようになっていたのでした。
へりくだる者の霊
しかし、主はおっしゃいます。
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、
その名を聖ととなえられる者がこう言われる、
「わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。
イザヤ57:15
僕がイエス様に言えることはこれだけです。
「イエス様ごめんなさい。そして、あなたを愛します。」