仕えること
最近、ずっと頭の中に「イエス様に仕えるように○○さんに仕える」という言葉がぐるぐる回っています。他のクリスチャンの方はわかりませんが、僕自身はイエス様に仕えたいという気持ちは強かったとしても、人に仕える気持ちはかなり弱かったりします。弱いというよりも嫌という気持ちが自分の中にあることさえ認めざるを得ません。
例えば、最も身近な人に仕えることができるか、ということです。教会の先生だけでなく、職場の上司、同僚、友達、さらには家族、配偶者、子などに対して、キリストに仕えるように仕えることができているかを問われると、ぐぅと言いたくなるのです。例えば、具体的に身近な人の名前を入れて「イエス様に仕えるように、井上さんに仕える」と言葉にしてみると、それができていないことに気付かされたりします。
自分が大切
そういった自分を見ると、なぜ自分はこんなに自分が大切なんだと疑問に思います。僕自身は別に自分が好きなわけでもないのに、やっぱり根本のところで自分が大切で、そんな自分を捨てて、誰かのために仕えるということを馬鹿らしく感じてしまうのです。
例えば、仕事においては、自分だけが面倒な仕事をしないといけない。誰かの尻拭いをしないといけない。といった状況になった時に、この自分が大切な自我が顔を出して、人に仕える心を奪ってしまうのです。僕が悩むのは、この人に仕える心を奪う自我なのです。
イエス様は仕えられた
イエス様は、天の栄光を捨てて、人の姿をとり、この地上に来てくださいました。それは仕えられるためではなく、仕えるためです。神が人に仕えるというのです。それは、イエス様が模範を示してくださるためでした。仕える生き方は平和をもたらす生き方です。イエス様は仕えることによって、仕える相手の心を溶かし、愛を現されました。
もし、僕がクリスチャンと名乗っているにもかかわらず、一向にイエス様に仕えるように周りの最も身近な人に仕えることができないとしたら、それはイエス様のあとに従っているとは言えないと思ってしまいます。
自我からの脱却
これは自分自身のことを言っているのですが、イエス様に賛美はできる。イエス様を褒め称えることはできる。賛美は大好き。ただし、賛美が終わると、目の前にいる人に仕えることができないのはイエス様の影響をほとんど受けられていない状況なのかもしれません。
自分の魂が恵まれることはとても大切です。そこから命の泉が流れるからです。ただ、自分が恵まれることばかり考えていたら、神様の御心からずれてしまう可能性もあると思いました。今日も、明日も「イエス様に仕えるように、○○さんに仕える」ことができるように強く祈ります。