主のため
昨日は朝の黄金の時間は悔い改めから始まると書きました。さらに教えられたことを書きます。朝、主の前に出るのは当然「僕」のためじゃありません。主のためです。しかし、どこまでいっても「僕」が顔を出すことを自覚しなければなりません。
もし僕が「朝、主の前に出ているのに、なぜこんなことがおこるんだ?」とか「なぜこんな失敗をしてしまうのか?」と思うのであればそれは自分のためにやっているだけです。それはただの自己満足です。
主が主役
主の前に出るのは主のためです。主が主役です。僕は主に仕える側です。自分はどうでもよくて主に自分を捧げることが朝の時間だからです。自分に死ぬとはどういうことでしょうか?それこそが昨日書いた悔い改めです。
これが主の前に出ることの前提です。書けば非常に当たり前のことですが、僕はそれすらわかっていなかったのです。これが今年チャレンジを受ける中で教えられたことの一つです。今日はもう一つを書きます。
自分から切り離される
朝の時間を主にお捧げするということは自分を捧げることです。それは自分から切り離されています。そして主の思いと心を一つにすると祈りがどうなるでしょうか?それは「とりなしの祈り」に変わるのです。
僕は以前は、どこまでいっても自分の事ばかりを祈っていました。自分のこと、仕事のこと、家庭のこと、家族のこと、どこまでいっても自分の関係者のことばかりです。「とりなしの祈り」といえば1割くらいです。わずかか時間だけ「する必要があるから」くらいの義務感で祈っていたのです。
主の思いがわかる
しかし、朝の時間、主と交わる中で思ったことは自分はどうでもいいと思えることによって「とりなしの祈り」が中心になるということでした。それは悔い改めから始まるからです。自分はどこまでいっても「肉々しくて肉たらしい」のです。悔い改める時に自分が切り離されるのです。
僕はそれが恵みだと思いました。朝一に自分から切り離さる体験こそが恵みだと思ったのです。自分から切り離されるということは主と共にあゆむということです。肉は自分が大切だし、自分がなくなることに抵抗します。しかし、霊は自分が死ぬことを喜びます。なぜなら、それによって主の思いがわかるようになるからです。
人生は短いから
まだまだ主の訓練の中にありますが、残された人生悔いのないように1日1日を過ごしたいと願っています。