1119_債権者はお金をもらう権利があるので正しいが…

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行動は言葉より雄弁

今週は自分でも驚くほどにイライラしてしまう場面が多かったです。なぜこんな些細なことでイラっとしてしまうのか自分に全く自信がなくなるほどでした。ですので、1日が始まる前に自分が些細なことでイラっとしないように祈る日々となりました。

自分の心の中を見るとやはり人を裁いてしまっている一面があることに気づきます。僕は自分の本能がこういうのを知っています。「俺はクリスチャンだから、そんな苦々しい思いを持っているはずがない。」と。しかし、行いは言葉よりも雄弁です。行いがそれを示しているのです。

悔い改めは恵み

御言を読み、祈り、内省していると、その苦々しい思いがまぎれもなく自分から出ていることにはっきり気づかされるのです。こういう自分の一面を見る時、自分に対して絶望的になります。しかし、感謝なことに悔い改めの道が残されているのでこれまでもやってこれました。悔い改めて、頭を垂れてひざまずくと時に主が内側に住んでくださるということを体験してきました。

なぜ、僕は人を裁くのか?ということを自問自答していると、ある聖書の言葉が頭に浮かびました。それは1万タラントの借金を赦してもらった男は友人の100デナリの借金を赦すことができなかったという話です。

債権者であることに間違いはない

この話を債権という言葉に注目して考えてみると、話の内容がよくわかりました。それは1万タラントを赦してもらった男には友人に対して確かに債権があったのです。男は確かに友人に100デナリを貸した事実がありました。

つまり、男は友人に100デナリを返してくれというまっとうな権利があったのです。それは正しいことでしょうか?悪いことでしょうか?決して悪いことではありません。男はある一面においては正しかったのです。

受けたこと

ここで教えられることは、人間の目に正しいからといって神の前に正しいとは限らないということです。これはお金の話ではなく、神の目からした場合、神に憐れみを受けたのだから、神の憐れみを他の人に向けるのは当然だろうということです。

内なる僕が人を裁いてしまうのはこれが理由です。自分は確かにある一面においては確かに正しいかもしれません。しかし、僕が神に憐れみを受けたのだから、神の憐れみを他の人に向けるのは当然だろうということを僕は見逃していました。

今日も悔い改めます。

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