0599_「祈る時間がない」と言っているは、結局は自分がそれをしたいと思っていないから

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いつでもイエス様に頼ることができる

日々生活をしていると、イエス様が共にいると言いながら、イエス様と共に1日を過ごそうとしていないのは自分のほうだと気づかされます。生活のあらゆる場面で、イエス様に頼ればいいのに自分の力でやろうとしていることが多いのです。

1日24時間ありますが、1分たりとも気を抜くことができないというようなパッツンパッツンのスケジュールでは生きてはいません。しかし、振り返ってみると、その1分を自分のために使おうとしていることがほとんどです。

祈るチャンス

今日はオンラインミーティングがありました。議題をまとめて何をどう話すかをなんとなく脳内で再生して準備も万全でした。ただふと時計を見ると、ミーティングまであと10分ほどあります。以前なら、この中途半端なスキマ時間を使ってニュースを見たりしていたのですが、今日は違いました。

「そうだ。今から始まるオンラインミーティングのためと、参加メンバーのため祈ろう。」という思いが沸き起こりました。正直なところ、言ってしまえば、これから参加しようとしているミーティングは定例のものだし、交渉があるわけでもないし、何か特別なスキルが要求されるわけでもありません。自分の能力を超過しているものではなく、自分の力でこなすことができるものです。

以前の自分なら、祈らなくてもいい部類に入れていました。しかし、今日は「もし、イエス様がこのミーティングにいてくださったら、みんなに祝福があるだろう!」と思って祈ることにしました。

攻めの頼り方

イエス様は生活の隅々にいつも共にいてくださっています。自分では「祈る時間がない」や「聖書を読む時間がない」と思っていても、実はいつでも祈る時間はあるのです。いつでも聖書を読む時間はあるのです。「ない」のは結局自分がそれをしたくないだけなのです。

自分が困難な時だけイエス様に頼るのではなくて、今回の出来事のようにもっと攻めの頼り方ができるようになりたいと思いました。それは自分のキャパが溢れるから、つらいから、助けてください~というものではなくて、周りのために、どんな時でもどんなことでもイエス様に頼る生き方です。

祈りをきいてくださるお方

今朝の祈りはこれでした。

「今日一日、あなたの恵みによって生かしてください。」
「今日一日、あなたの恵みによって歩ませてください。」

祈りをきいてくださっていてとても感謝だと思いました。

おっさん
■イエス様はいつも共にいてくださっている。じゃあ僕は?

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