信仰の回復に必要な過程
今年も時々自分の信仰の回復ということをテーマにブログを書いてきました。振り返るとおもに祈りを回復させるという内容が多かった気がします。仕事や家庭においても祈らざるを得ない状況にあったり、そもそも、イエス様の深い関係に帰りたいという思いが強く沸き起こってきました。祈りの時間を天引きして自分の部屋で一人で祈ったり、時には銭湯に行って数時間祈るというようなこともしました。
0502_シロアリが巣食う家屋のごとくにボロボロになった祈りの神殿
自分の祈りの神殿が回復したとは全く言えませんが、最近はその過程で御言の回復が始まっています。
御言の回復とは?
この御言の回復とは僕の中では自分の中に御言を刻み込むという過程になります。御言を覚える、暗唱するという過程を経て、御言を自分の中に打ち込み信仰をより強固なものにする作業です。
というのも御言に根ざしていない限り、信仰は感情的なものに頼ってしまいがちです。さらに人の言葉によって一喜一憂したり、起伏が激しくなってしまいます。その結果、行いが必ず不安定になります。
そこで、家を打ち立てる時に、杭を一本一本打ち込んで、家の土台を強固にしていくように、御言を自分に打ち込んでいくのです。
具体的な方法
実はこの御言の回復は僕が浪人生の時に行っていました。日々聖書を読む中で、これを自分の中に打ち込みたいという御言の箇所と内容をノートに書き出します。そして、その御言を何も見ずに諳んじることができるように訓練します。最終的には聖書箇所だけを見て言えるようにするのが目標です。
最初は簡単ですが、御言が増えてくるとなかなか難しくなってきます。似たような聖書箇所だったり、内容がかぶったりしてしまうからです。当時暗唱した御言は少なくても100はあって、中国時代にもそこから100は追加されています。たぶん、日本に帰って来てからはせいぜい50くらいです。
これら250の御言を忘れないように日々メンテナンスしつつ、新しい御言を覚えて自分の中に打ち込むのです。
ただ覚えるだけでは無益
実は暗唱できるようになるだけでは全く意味がありません。なぜなら、必要な時に必要な御言を引き出すのは聖霊の働きだからです。ですので、覚える時には必ず聖霊に紐付いている必要があります。もし、御言の暗唱がただの知識の詰め込みになるならば、ちっとも面白くもないし、恵まれることもないです。
しかし、聖書の御言は霊で味わうものであり、御言を深く思い、覚える時に、この上なく魂が恵まれるのです。
わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。
エレミヤ15:16