救われると一体どうなるのか?
イエス・キリストを心に受け入れて、魂が救われると何が変わるのでしょうか。本人の主観的な救われたという体験だけでなく、客観的に誰にも見える形で神様の栄光が表されることを誰もが望んでいるでしょう。しかし、とはいっても、僕の場合、残念ながら、誰が見ても、「お前はクリスチャンだ」、すなわち「キリストのような者」と言われるようには生きれていません。せいぜい、頑張って、低打率で、この卑しい者から「何か普通の人と違うね」と思ってもらえるくらいが関の山です。
僕が救われる前のビフォーを知っている友人に、アフターの僕を見て、「変わったね」とわざわざ言われたことがありません。せいぜい、「生き方一貫しているよね」や「ぶれないよね」と言われるくらいです。
あるものからの開放
じゃあ、何が変わるのか?様々なことが言えると思います。抽象的に宗教的に言えば、罪からの開放、闇から光へ、孤児から神の子へ、恐れから平安へ、などと言えると思います。その中で、僕が日々、痛感していることを一つあげるとすると、「脳内メモリが開放された」ということです。
メモリとはスマホやPCに内蔵されているもので、計算を司るCPUが作業をする空間です。PCを立ち上げたり、多くのアプリケーションを開くとこのメモリ(作業台)が占有されます。例えば、ブラウザのタブを大量に開いたり、重いソフトを複数立ち上げたりすると、メモリ(作業場)の使用率が100%近くになり、何も作業ができなくなります。
メモリ0%の体験
僕が救われる前は、自分の無能感に絶望し、この世界で生きることは辛いこと、結局は人間は一人、人は頼りにならない、夢も希望も特にない、流されるままに生きる、といった言語が脳内メモリに巣くっていました。そういったネガティブな感情で脳内メモリが満たされているので、いつも不安や怖れや怒りや不毛感、虚無感などで脳内メモリが100%満たされていました。
しかし、イエス・キリストの救いは僕の内面で明確な変化をもたらし、そういったネガティブな言語から解き放ち、メモリを0%に開放してくださったのです。そして、そのメモリに主を受け入れること、神様の言葉を思うことで満たしてくださるようになりました。そうなると、将来の希望、永遠の命、主イエス・キリストを待ち望むという未来に対する思いで脳内メモリが占有されるようになったのです。
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
テモテⅡ2:8
もし、自分ではどうしようもない、やり場のない感情で脳内メモリが占有されているなら、イエス・キリストの御元に飛び込むことをおすすめいたします。彼は真実なお方で、決して裏切ることがありません。