霊的にスランプ
昨日はよい意思決定をするためには長期視点が大切だと書きました。またクリスチャンはさらに永遠という視点が必要になるとも書きました。そして、永遠の視点で物事を見るには、自身の力と理性の限界を認めた降参、そこから生まれる聖霊への渇望が必要だと書きました。
僕が最近、このようなことをだらだらと書いているのは自分が霊的にスランプに落ちているからです。もし霊的に豊かなのであれば、そんなことを書く必要がないからです。僕は何とかして、自分の力や理性や意思によって道を開こうとしているのです。
祈りたくない
正直に書けば僕は今祈りたくないのです。きっと、何かがプツンと音を立てて切れたのだと思います。だから、自分は一人では生きてはいけないとわかってはいても、今は主には祈りたくないと思っていたのでした。不思議なことに主なしで信仰生活をしようとしているのです。
しかし、そのような状況では僕の心はずっと曇っており、何をしていても悶々としているのでした。そして、昨日僕は仕事を始める前に昨日のブログで書いたような「降参の祈り」を心から主に捧げました。
降参の祈り
「主よ。私は自分の理性や力で心の豊かさを持つことは決してできません。私はあなたなしでは虚しい存在です。あなたなしでは、神の愛も聖書の教えも永遠も僕には何の役にも立ちません。だから、私はあなたに降伏します。主よ、あなたの霊が私に満ちる時、私は「あなた」を知ることができます。どうかあなたの聖霊を豊かに私に満たしてください。」
その時に、ふっと心が軽くなるのがわかりました。また、とうていできるわけがないのに、理性やマインドで信仰生活を送ろうとしていた考え方の城壁がガラガラと音を立てて崩れるのも感じました。
聖霊によって生かされる
僕は頭はよくないくせに、理屈で考えようとします。またすべて主がしてくださったことなのに、今さら主なしで生きれると思ってしまう愚かなものです。しかし、遅かれ早かれそういったマインドの信仰は行き詰まります。主がどうしようもない僕に語って下さった言葉はこの御言でした。
コリント人への第一の手紙 4:7
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
聖霊によって生かされるということ、また聖書によって戒められるということの幸いを体験しました。












