1684_自分の信仰に大きな暗い影を落としている今

なぜ、祈りたくないのか?

昨日は「今は主に祈りたくないと思っていた」というタイトルでブログを書きました。祈りたくはないが信仰生活は送りたい。だから、自分の理性や力で頑張ろうというのは本質的なところで誤っており、遅かれ早かれ生き詰ると書きました。そして、まさに自分がそうなったのです。

「なぜ、祈りたくないのか?」と自問した時に少しわかった気がします。それは2025年今年自分に起こった出来事が自分の信仰に大きな暗い影を落としていたからです。

子どもの死

これまでの自分の人生を顧みると「自分が考えていることは周りと違うようだ」と気づいた時から生きづらさを感じていたように思います。しかし、そういった中にあってもイエス様の愛に触れられて、主と共に生かせて頂くようになって、はじめてそれらもすべて幸いであったと思えるようになりました。

しかし、2025年自分に起きたこととそれらを比べたら、それらはなんとでもなかったと思えます。子どもの死というのは、この世界においては当たり前のようにあり得ることであったのに、どこか自分はそういったものから守られていると思っていたのです。

これからの自分の人生

僕が今思っていることを正直に書けばこういうことになります。

「主は子どもの死という絶望に近いようなことも経験させた。そうであるならば、これからの自分の人生に同様の出来事やもっと絶望に感じるようなことが起こっても全く不思議ではない。主の守りとは一体何なのか?この人生は全く苦痛に満ちているじゃないか。」

そういった暗い影が僕の魂にあるので、「祈る気になれない」のです。

希望を見出せない

もちろん、自分に良いこと悪いことがあってもなくても、主は絶対賛美を受ける方に変わりはありません。素晴らしいお方であることは永遠に変わることはないのです。なにより主は僕のどうでもいいような魂を贖ってくださいました。それだけで主を賛美するのです。

上記を踏まえてさらに言語化してみます。

「永遠のふるさとへの望みはある。永遠のいのちへの望みはある。しかし、今年の出来事を思うにこれからの地上における自分の人生には希望を見出せない。」

これは過程

今日は、クリスチャンと言われる人がわざわざする必要のないような思いを言語化してしまいました。しかし、これは過程でもあります。僕はこのまま果てるわけにはいきません。

ローマ人への手紙 5:5
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

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