見えないものを見る生き方
キリストの恵みにより魂が救われたからといって、必ずしも人生順風満帆になるというわけではありません。たとえ、目に見えるところはうまくいっていなくても、失望の連続であったとしても、キリストの命が与えられて「霊が生き返った」という目に見えない事実ほどこの地上で重要なことはありません。
しかし、そのことを頭でわかっていたとしても、この世は「見えるものだけがすべて」という前提で動いており、クリスチャンもそこに存在しています。さらにクリスチャンも主観で生きているので、感じていること、思っていることに左右されやすいです。だからこそ、見えないものに目を注ぐ生き方をするのは決して簡単なことじゃないと感じています。
本気でやろうとする時
クリスチャンというのは決して肩書ではありません。生き方です。信仰の父と呼ばれているアブラハムと同じ生き方が要求されます。つまり、目に見えないものを見えるように生きる生き方、主観ではなく聖書に基づく生き方です。
そして、その生き方を目指そうとするとき、ふたを開けてみるとキリストによる勝利の連続ではなく、むしろ、自分自身の失敗の連続であったり、むしろ、聖書の価値観とは全く正反対の反応をしてしまう自分がいることに気づかされることがあります。
それは悪いことではないと思っています。なぜなら、そういった過程をとおして肉というボトルネックを解消していくことができるからです。それこそが、燃え盛る炎の中で金粕が取り除かれて純金になるという過程だと思うのです。
倒れる時
肉というボトルネックに気づかされた時、とてもショックを受けます。そして、その時に二つの選択肢が与えられます。「もう無理だ」と「いや悔い改めて立ち上がろう」です。僕は何度もこの二択を迫られて生きてきました。「もう無理だ」と思っている間は、心が晴れず、曇り空、低空飛行というような状態でした。
しかし、何度も失敗してしまうけれど、「もう一度悔い改めて立ち上がろう」と決意する時に、心が晴れ、心の中で散らばっていた積み木が整理整頓され、晴れ空に、そして、鷲が上昇気流に乗って空高く飛んでいくような新たな気持ちにさせて頂けます。
赦された者の責任
他責のうちは心は晴れません。人はほとんど自己弁護のため、無意識に他責するようになっています。それは自分の責任にならないようにとの生まれつきの本能の働きなのだと思います。しかし、その因果の考えで、たとえその他責が間違っていなかったとしても聖書によれば間違った自己弁護です。
なぜなら、キリストは僕を赦してくれた以上、僕に人をゆるさない選択肢はないからです。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
ヨハネⅠ4:8