1321_クリスチャンとして最底辺の枕言葉

神さまと共に歩んでいないということ

昨日は教会が祝福されなくなる原因の一つに兄弟姉妹を愛していないということを書きました。それは当然です。なぜなら、目に見える兄弟姉妹を愛さないのであれば、目に見えない神様を愛してはいないと聖書に明確に書かれているからです。

もし誰かを受け入れられなかったりするのであれば、その人は神様を愛しておらず、神さまと共に歩んでいないということになります。僕は非常に人を裁きやすい人間なので、いつもその足元をすくわれる危険性があると感じています。特に家庭内やクローズドな環境は注意が必要です。聖書にあるとおり、そういう時にこそ、この御言を心に留めたいと思っています。

油断することなくあなたの心を守れ。命の泉はこれからわく。
箴言 4章23節

隠れたところで人を愛さないこと

たとえ教会では文句や愚痴や不平不満を言っていなくても、家庭内や特定の誰かと話をしている時にそれが出てくるのであれば、神さまを愛していない可能性が非常に高いです。

むしろ、教会で文句や愚痴を言う人は相当致命的であって、ほとんどの人は隠れたところで人を愛さないことが多いと思います。愛さないとは、ある人に対して不利なことを言ったり弁護しなかったり、受け入れないといったこともあげられます。

クリスチャンとして最底辺

なんと僕は先日、嫁さんと話している時にそれをしてしまったのです。自分でもそれが神様に喜ばれることではないと自覚していました。しかし、感情が先走ってしまって嫁さんにこのように言ったのです。

「今から言うことは人を裁くことになるので、あとで悔い改めないといけないけど、〇〇〇」

この枕言葉は最低です。正直クリスチャンとして最底辺だと思います。へびのごとく非常に狡猾だと思います。なぜなら、悔い改めないといけいないとわかっていて、それをあえて発言しているからです。

主人の心を知りながら

その日、僕は悶々と過ごしました。そして、その翌日の祈りでは神様からの厳しい言葉も頂きました。無意識のうちに人を裁くのとわかっていて人を裁くのは、結果としてどちらも同じなのでどちらも悪いことに変わりはありません。

しかし、聖書にはこのようにあります。

その主人の心を知りながら、用意もせず、その心にかなうように働かなかったしもべは、多くむち打たれるであろう。しかし、知らないでむち打たれるべきことをしていた者は、少なく打たれるであろう。
ルカの福音書 12章47-48節

僕は主の心を知りながら、その言葉を発してしまったのです。もうこれからはクリスチャンとして最底辺の枕言葉は使わないと誓いました。

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