やる気喪失のシーズン
昨日に引き続いて倦怠感からくるやる気喪失のシーズンを今過ごしています。やる気がなくなると自分が自然とこなしていたルーティンが実行できなくなったり、自分で決めた簡単な約束事すらも守れなくなってしまいます。倦怠感に襲われてからは筋トレも各種学習系も全くできていません。かろうじて、何とか仕事ができているくらいです。
自分が今このような状況にあるのは、それが自分にとって必要だからと思っています。もちろん、体調はすぐれないし精神力もないし状態は決してよくはないのですが、これは僕にとって必要なシーズンなのだと思います。
すべてのやる気は主から与えられているもの
その理由の一つは昨日書きましたが、すべてのやる気は主から与えられているものなんだと思わされました。できている時にはあまり気にも留めていないですが、人間が活動できるのはすべて、意欲、やる気、活力、モチベーションなどがあって初めて動くことができます。それが全くなかったら何もできないのです。
つまり、もし意欲があったり、やる気があるのであれば、それだけでとても感謝なことです。そして忘れてはならないのは、それは神様が与えてくださっているからこそなんだと思いました。なぜなら主がすべての主権をもっておられるからです。
古い自分を忘れないようにするために大切な御言葉
そう思った時に救われる前のことを思い出しました。救われる前まではある特定の側面からだけ見るならば本当に無駄に生きてきたと思うほどに無活力な生き方をしていました。聖書には様々な表現がありますが、いずれも僕にぴったりです。古い自分を忘れないようにするために大切な御言葉です。
しかし、今では神を知っている、いやむしろ神に知られているあなたがたが、どうして、再び弱くて貧しいもろもろの霊力に逆戻りして、再びそれに奴隷になろうとするのか。
ガラテヤの信徒への手紙 4章9節
では、あなたがたは、その時、どんな実を結んだのか。それは、今では恥じるようなものであり、その行き着くところは死である。 しかし今や、罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる者とされるに至る実を結んでおり、その行き着くところは永遠の命である。
ローマの信徒への手紙 6章21-22節
あなたがたが知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、 きずもなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
ペトロの手紙一 1章18-19節
今はどうなのか?
まとめるとこういうことになります。確かに今は倦怠感の強いシーズンを歩んでいるかもしれない。しかし、昔は空疎で弱くて貧しいもろもろの霊力の中でその奴隷として歩んでいました。その生き方は恥ずかしいものであってその終局は死でしかありませんでした。しかし、今はきずもなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によって救われているのです。
主をほめたたえます。