久しぶりの自由な時間
先日、だいぶ久しぶりに嫁さんが子供を連れて友達と遊びに行くことになりました。ということはつまり、一人の時間があるということになります。一人の父親としてどうかとも思いますが、正直に書くと一人の時間があることは自分にとって大変喜ばしいことでもあります。もちろん、嫁さんや子供と過ごすのはとても楽しいです。しかし、ゆっくり一人で本を読んだり聖書を読んだりする時間があるのはとっても大切なことだと思っています。
しかし、今回は少し事情が違いました。いつもであれば銭湯に行こうか?とかラーメン屋にでも行こうか?とか心弾むのですが、今回は親知らずを抜歯した影響から全体的にメンタルが弱っており、そういった意欲がまったくわかなかったのです。
異言での祈り
当日の朝、嫁さんと子供を見送ってからどうしようかと思いました。まず、朝シャワーを浴びました。それから風呂場に跪いて比較的大きめで声で異言での祈りをしました。いつも家にいる時は嫁さんが福音派出身ということもあり、異言で祈ったとしても音量控えめで祈っています。
今回は自身が母教会にいた時のような自然な祈りをしました。すると自分でも思っていなかった切なるうめきが魂から沸き起こってきました。自分が抑え込んでいたものがあったのだと初めて知りました。いつもなら10分~15分くらい祈って終わるのですが、今回の祈りは40分ほど続きました。こういう表現は非常にペンテコステ的であまり好きじゃないのですが、本当に霊的な鎖から解き放たれた気がしました。
自由な賛美
それから着替えて教会の週報作成の奉仕に行きました。いつもであれば奉仕が終わってからは子供と昼食をとるのですが、今日はフリーな時間があります。ギターをもってきて30分ほど自由に賛美をしました。5曲くらい自由な流れの中で賛美をして魂が恵まれるのを強く感じました。
そのあとは、自転車で最寄りのケンタッキーに行って、聖書を非常にゆっくり読みました。ピックアップした御言をノートに写したり、覚えようとしたり、黙想したり目をつぶって祈ったりしました。
御言に浸る
その日、僕は僕にとって本当に必要なのは改めてイエス様だと感じました。僕はイエス様がいなければ本当に何もできません。きっとある程度自分の能力や肉によって強がることはできるでしょうし、格好もつけられるでしょうし、そこそこまともな生き方はできるかもしれません。
しかし、魂が救われて主の光が心の中に差し込まれた今はもうそのような生き方はすまいと改めて決意しました。