0882_神様を信じているからといって聖書のすべての御言を信じているわけではない

信じているものと信じていないもの

僕はクリスチャンで神様を信じていると公言しています。しかし、隠さずに言えば信じているものもあれば、信じてないものがあるのが事実です。それは意識できているものもあれば、無意識に信じれてないこともたsくさんあります。例えば、お祈り一つにしても、風邪なら神様は癒してくださるだろうという信仰がある一方で、誰かの大きな病のためには信仰が働かなかったりします。

また聖書66巻がすべて神様の御言であることを信じている一方で、聖書箇所一つ一つをピックアップしてこれは信じているのか?と聞かれた場合、答えに窮するものもあります。例えば、この御言です。僕は依然として日々罪を犯しながら生きているからです。

すべて神から生れた者は、罪を犯さない。 神の種が、その人のうちにとどまっているからである。 また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
ヨハネⅠ3-9

イエス様と共に生きることがすべて

信仰生活とは救われたのち、「神様と共に生き続ける」というシンプルなものだと理解しています。共に生き続ける過程で、イエス様の性質や判断や行動の影響を受けて僕自身が変わっていくこと、それは聖霊の働きによるものですが、それがキリストの似姿になっていくものと理解しています。

さらに、共に生き続ける過程で、様々なことを通してイエス様との関係がより強固になり、こんなにも大きなことをしてくださったイエス様は必ず大きなことをしてくださるだろうという信頼関係によって信仰が生まれてくるものだと理解しています。

イエス様との信頼関係を阻害するボトルネック

もしかしたら、多くのクリスチャンが冒頭に僕が述べたように神様を信じると公言していても、実際は信じれていないことがあるのではないかと思います。

信仰生活とはともすれば、イエス様と共に歩む過程で信じれないボトルネックを一つ一つ潰していく過程であるともいえるかもしれません。イエス様の素晴らしさやご性質に触れる度に、これまで信じれなかったことが信じれるようになるという体験を繰り返ししていくのかと思いました。

信仰によって生きる

義人は信仰によって生きます。さらに信仰がなくては神に喜ばれることもできません。僕はこの信仰を与えてくださる神に祈りつつ、神に喜ばれるように信仰を願い求めて生きたいです。

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