なぜイエス・キリストを求めるのか?
なぜ人はイエス・キリストを求めるのでしょうか。そんなことはクリスチャンじゃなくてもわかっていることかもしれません。それは「救い」が必要だからです。天地創造されて以来、イスラエルの長い歴史の中で民が長い間待望んでいたのは「救主」のほかにありませんでした。
では、イエス様を救主として心にお迎えして救われたら、そこでイエス様を求めることは終わってしまうのでしょうか。そうなる人もいれば、そうならない人もいると思います。
求める人と求めない人
前者の場合は、いつしか自分にはイエス様が必要ないと思ってしまうようになってしまったのかもしれません。イエス様の救いがなくても自分自身の力で生きていけると。
後者の場合であっても求める理由は人それぞれです。ある人は身体や精神的な弱さをかかえていて、イエス様にすがる人もいると思います。もしかしたら、ある人は経済的な助けが必要で求めるかもしれません。大切なのは動機が何であれ、求め続けることだと思います。
求めなくなる人
なぜなら、イエス様を受け入れる人は多くはありませんが、さらにイエス様を求め続ける人となるとさらに少なくなるからです。ある統計によるとクリスチャンの平均年齢は3年くらいだそうです。つまり、救われて教会に来るようになっても3年くらいすると離れて行く人が多いそうです。求め続ける人はそう多くないというのです。
僕の場合は、人格や性格や資質にかなり難があり求め続けざるを得ないという表現が正しいです。救われる前はひどかったですが、救われた今もイタイ人間であり、変わりたくてイエス様を求めています。この地上でわずかでもいいからイエス様の似姿に変えられたいという希望と最終的にこの卑しい肉体がイエス様によって栄光ある身体によみがえる希望があるから求めています。
存在がゆるされているということ
だから、僕みたいな人間は、イエス様によって存在することを赦していただかないと生きることができません。こんな者でも受け入れてくださっているという確信によって、今日もなんとか生きることができているのです。
土の器と言う賛美がありますが、そのとおり、不十分で、不足していて、貧しくて、欠けだらけであっても、受け入れてくださっているのです。約2000年前に羊飼いたちにイエス様の誕生の大きな喜びが伝えられたように、人格、性格、資質、いずれにおいても難のある人間にも、へりくだるならば来てくださると信じています。