御心ならば
先日このような賛美があることを知りました。歌詞がすごくよかったので共有いたします。
御心ならば
御心ならば 進み行きます
そうでないなら 立ち止まりますすべては主の 言われるままに
おぉ主よ 従います主よ 私を導いてください
主の導く場所へ行きます弱い私 用いてください
主とその御国のために
確かに僕たちが信じている神様は共にいてくださるお方です。インマヌエル、神われらと共にいますと言われたとおりです。またイエス様は失われた者を探し出すためにいつも働いておられます。そして黙示録にあるようにその人のところに行って、心の扉を叩いて僕たちが心を開くのを待っておられます。
寄せようとしている
しかし、僕がこの賛美の歌詞を見てはっとさせられたのは、「僕はいつもイエス様を僕のほうに寄せようとしている」ということでした。どんな時でも主は共にいてくださるのは確かですが、僕は主と共にいようとしているのか?ということを問われました。もしかしたら、主はいつも共にいてくださるからということに甘えていたのではないかと思ったのです。
神さまと共にいるということは、神さまと共に歩むということです。それはこの賛美の歌詞にあるように、イエス様が進んでいかれるところについていくということです。決して僕が行くところにイエス様がついてくるということではないのです。
主と共に歩むということ
書けば当たり前のことなのに、どこかで認識が大きく書き換えられていました。僕は自分のしたいことはする。かつ、イエス様も共にいてほしい。というなんとも自己中心的なクリスチャンになっていたんだと思いました。
本当の意味で主と共に歩むということは、羊が羊飼いの声をきき分けるように従順にイエス様の声、つまり、御言に耳を傾け、かつそれに従おうとする意志のことです。たとえ、聞いた御言が自分で実行するのが難しいと思えたとしても主はその従いたいという意思を見て下さり、聖霊によって助けてくださるのだと信じます。
信仰姿勢に切り替える
今回改めて自分の信仰を見て、このイエス様を自分のほうに引き寄せようとするマインドはなかなか強固でしぶといものだと感じています。
「イエス様来てください」も大切な宣言かもしれませんが、もっと大切なのは「イエス様のところへ行きます。」です。また、自分の歩みにイエス様に合わせてもらうのではなくて、イエス様の歩みに自分を合わせることです。
僕にとってこの信仰姿勢に切り替えるのは決して容易なことではないですが、この認識の書き換えを忘れずに主に合わせる生き方をしていきたいです。