0734_親ガチャ思想

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三つ子の魂百まで

昨日は「三つ子の魂百まで」ということで、親の存在が子供の性格や人格という人としての土台となる部分に大きな影響を与えるということを書きました。そして、それは子供を経済的に養うということよりも重要で親は大きな責任を負っているということも書きました。

しかし、親とて完全じゃありません。完全な愛など親にはありません。ここでいう完全な愛とは一貫性のある愛です。誰か(こどもや血縁関係にある人)は愛せるけれど、誰か(赤の他人)は愛さないという「一貫性のない愛」でしか子供を愛せないのです。

自分には完全な愛がなくても

しかし、聖書によると、それで終わりじゃありません。たとえ、僕には完全な愛がなかったとしても、完全な愛をもっておられるイエス様がおられることを知っています。僕には子供を完全に愛する愛はないけれど、イエス様は子供を完全に愛する愛をもっています。それで十分だと思いました。僕がすることはそのイエス様を心にお迎えするだけです。

イエス様ご自身だけが一貫性のある愛をもっておられます。分け隔てをしない、差別をしない、すべての人を命を捨てるほどに愛してくださっています。人間に決してない赤の他人でさえも完全に愛する愛をもっておられるのです。だから、このお方を心にお迎えして、褒めたたえて生きればいいと思いました。

自分が変えられる望み

次に「三つ子の魂百まで」を自分自身に適応すると、今後、自分の性格や人格は変わることはないのか?と言う問いが生まれます。すべては親のせいとなるのは他責の生き方になってしまいます。実際に親ガチャと言う言葉があり、他責にせざえるをえない事情があることも実際多いと思います。

しかし、だからといって、すべてが運命的に、先天的に決まってしまっているという考えに捕らえられすぎると、事後的に物事を変えたり、違った解釈をほどこすという力も奪われてしまいます。実際、人間にはそういった自己啓発的な力があります。

イエス・キリストと共に歩む時に

しかし、もしイエス様のところに行くならば、その心も癒されますし、イエス様との関係の中で自分自身が造り変えられていくという過程を通らせて頂くことができます。

僕自身は決して親のせいではなくて、後天的に人格的にも性格的にも問題があると認識していますが、イエス様により頼むことによってのみ造り変えられる望みを抱いています。

おっさん
■イエス・キリストにあって「三つ子の魂百まで」の限界を超えることができる

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