三つ子の魂百まで
「三つ子の魂百まで」と言う言葉があります。
これは3歳頃までに人格や性格は形成され、100歳までそれは変わらない。
どのように人格や性格が形成されるか?その大部分はおそらくは両親の愛だと思います。どれほど深い愛を受けて育ったか?が何よりも重要だと思います。また両親とどのような関係であったかも重要だと思います。幼子の様々な反応に対して、親がどのように反応したか?これも同じように幼子の魂を決めてしまうのだと思います。
親が行動した通りに育つ
次に大切なのは、両親の言葉以上に、両親の行動でしょう。幼子はたとえ0歳であっても大人が驚くほどに周りをよく見て観察しています。そして、既に空気を読むというようなこともやっています。たとえ、両親が子供の前では愛の溢れる行動や言葉をかけていたとしても、それだけでは不十分です。なぜなら、幼子は一貫性があるかどうかも見て感じているからです。
もし一貫性が保たれていないなら、子どももそのようになってしまいます。例えば、両親が赤の他人や家に訪れた飛び込み営業の人に対して、無作法な態度をとっているのを見たら、家族以外の人に対しては無作法な態度をとってもいいと学習してしまいます。
ただ養うだけでは不十分
だから、親は非常に大きな責任を負っています。もし「三つ子の魂百まで」と言う言葉を信じるなら、ただ単に働いて子供を養うだけでは圧倒的に不十分なのです。経済的には厳しくても、親の愛や誠実さや一貫性を感じて育った幼子の方が幸いです。なぜなら、お金はなんとかなるからです。それよりも100歳まで影響を及ぼすことのほうにもっと専念するべきだと思います。
じゃあ、「お前はどうなのか?」となるのですが、社会不適合者である僕が、仕事では不適合で家庭では適合できているわけがありません。もれなく家庭でも不適合者であり、自分自身に対してかなり大きな課題を背負っています。人格を疑われるかもしれませんが、正直なところ、こどもは絶対的に可愛いですが、「本当の意味で愛せるのか?」と言う問いに対しては、自信をもって「イエス」と言えない自分がいるのを知っているのです。
なぜなら、「本当の愛」とは、一貫性のある愛であり、子どもは愛するけれど、周りの人は愛さないというものではないからです。きれいごとのように思えるようであっても、すべての人を愛する愛でこどもも愛さないといけないのです。
神の前に膝をかがめる理由の一つ
僕の肉的な愛には限界があります。エロスの愛も、エストルゲーの愛も、フィレオの愛も限界があります。だからこそ、神の愛であるアガペーの愛を頂いて子供を愛することができるように膝をかがめて祈りたいと思っています。