信仰生活はマラソンに例えられる
人生はマラソンに例えられることがあります。信仰生活もまたマラソンに例えられることが多いです。たとえ、イエス・キリストを受け入れて、劇的に返られたとしても1年で信仰をやめてしまったら信仰のマラソンから離脱したことになってしまいます。途中歩くことがあっても、ゆっくりでもいいから信仰のマラソンを走り切ることが大切になります。
しかし、ランニングをしていて感じたことは、厳密にいうと、信仰生活は決してマラソンではないということです。なぜなら、フルマラソンは42.195Kmを原則歩くことなく走ることを要求されます。そして、その間、椅子に座ってゆっくりすることはおろか、水分も必要最低限しかとることができません。
信仰生活は過酷なことばかりじゃない
信仰生活は確かに長距離であり、マラソンのように感じます。またマラソンのように過酷なエリアがあったり走ることすらできるかわからない状況もあります。しかし、信仰生活のマラソンは休憩が赦されないような、また水分補給も必要最低限であるような過酷なことばかりではないのです。
なぜなら、霊の領域において、豊かなお方がともにいてくださるからです。マラソンの最中に、主は豊かな恵みと祝福を道中に用意してくださっています。溢れるほどの命の泉、また安らかに伏して眠れるような霊的なふかふかのベッドも用意してくださっています。
豊かに満たされる休憩所がある
ですので、僕が思う信仰のマラソンとは、信仰生活の最初から終わりまでを42.195kmとして休憩なしで完走するものではなくて、信仰の成長に応じてインターバルがあるものだという理解です。激走する時もあり、ゆっくり走る時もあり、歩く時もあるでしょう。しかし、主の訓練を経たあかつきには、時々に休憩所でゆっくり羽を伸ばす時も用意されているという理解です。
主は信仰の成長に応じて試練を与えてくださいます。それは内側が造り変えられるために必要な過程です。その過程を経るためには前に進み続けなければなりません。失望することなく、諦めることなく、聖書の言をしっかり握って進む必要があります。
走っている途中でもあきらめず
だから、今が過酷なコースだと思ったとしても主は必ず休憩所を用意してくださっています。「信仰生活やってられないわ!」と諦めるのではなくて、次の休憩所、次のインターバルまでは走り切ることができれば、主からさらに豊かな力を頂くことができ、超回復してまた進んで行けるのだと思います。もちろん、走っている最中も主は必要を満たし、助けてくださると信じて。