都合のいい生き方
これまでの自分の人生は主に我田引水の人生でした。
我田引水
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
我田引水の意味
僕にとっての我田引水の生き方とは、自分が感じたり知ったり聞いたりしたものを自分なりに解釈して自分に取りこんでいくような生き方です。このような生き方は、自分の持っている文脈に紐づけると学習効率があがるので、確かに効率的ではあります。
しかし、このなんでもかんでも自分の文脈に取り込むというのを聖書に対してすると大変な目にあいます。というのは、少しづつ神様の御心から外れた生き方になってしまうからです。
都合のいい解釈
僕自身は決してゆるされることではありませんが、聖書の言を自分に取り込む過程で自分の都合のいいように解釈することがありました。聖書に書いてあることをそのまま鮮度の高い神の言として受け入れるのではなく、自分なりに加工して処理して取り込むというようなことをしていたのです。
それは例えると、せっかく生で食べておいしい鮮度の高い希少な部位の刺身を、我流で揚げるなり煮るなり調味料をかけるなりして、本来の食材の魅力を失うような行為です。
具体的に言えば、「神の峻厳と慈愛」、「律法と十字架の恵み」のバランスを自分なりに解釈して、何をしても最終イエス様の恵みに立ち返ればいいみたいな極端な考えを持っていたことがありました。また、この御言は現代には有効で、この御言は無効というような判断を勝ってにしていたことがあります。
そういった生き方が招くもの
しかし、そういった自分に都合のいい聖書の読み方をして結んだものは自己中心の実、周りに迷惑をかける実、神様が喜ばない実でした。二心の生き方であり、言ってしまえば、信仰の必要のない生き方です。なので、聖書の言葉を我田引水するのは非常に危険です。
そういった生き方を是正するためには、いくつかの方法があると思います。一つは祈りによって導かれた神の器からの説教をきちんと聞く事です。2つ目は、へりくだった心をもって聖書を読むことです。3つ目は、誰かに咀嚼した聖書の言葉を誰かに分かち合うことです。
ずれた生き方にならないために
今日聖書を読んでいて強く思わされたのは、これら3つを行う前提になるのは、主に心のうちに住んで頂くことです。ヨハネによる福音書にはこのようにあります。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
ヨハネ4:14
つまり、イエス様が与えてくださる水を飲む者の心には泉が湧きます。そして、その泉から湧き上がる水こそが永遠の命に至らせるのです。換言すると、イエス様の水を飲み続ければ、決してずれた生き方にはならないということです。
だから、これまでの我田引水の生き方ではなく、主泉流水の生き方ができるように口先だけではなく聖霊に満たされることを求めていきたいです。