0676_聖書の御言を魂に編み込み、打ち込み、刻み込む

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聖書を読むこと

聖書の御言は覚えないと意味がないとずっと考えています。聖書を読んでいる時は鏡で自分の姿を見るように、現実の自分の姿がわかります。そこではじめて聖書の価値観と現実の自分にギャップがあることがわかるのです。しかし、もし鏡から離れて自分の実際の姿を忘れてしまうなら、あるべき姿がわからなくなってしまうのです。聖書にはこのように記載されています。

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
ヤコブ1:23-25

しかし、もし、自分の姿を鏡で見続けることによってギャップを意識し続けて「変えられたい」と思えたなら、主を求めるようになります。また主の力なしでは到底変えられることはないとわかるようになります。その状態になるには、聖書の御言を覚えるしかないと思っています。

なぜ覚える必要があるのか

もちろん、別に「暗唱聖句をして俺はすごい」とか「パブリックなお祈りの時に使えるから」とかは一切思っていません。ただ、この憎い、不完全で、足りない、弱い、情けない、いたい自分が主にあって変えられたいという望みを強くもっているから、聖書の御言を覚えたいと思うのです。

聖書の御言を魂に編み込み、打ち込み、刻み込むと、無意識的に聖書の価値観で生きることができるようになると信じています。それは、主の恵みによってです。なぜなら、神ご自身がことばであり、そのことばが共にあることは、つまり主が共におられることだからです。そのことばを聖書として与えられていること自体が奇跡であり、それに親しむことができるのは途方もないくらいの大きな恵です。

実行する上で

最初は一つの御言を実践しようとするだけでも何度も失敗します。僕自身、ある御言において、ある時は実行できてもある時は実行できないことがあります。また、ある御言はまだまだ全然実行できていないと思うものもあります。今は後者のほうが圧倒的に多い状態ですが、できる限り、主の恵みによってあるべき姿に変えられたいと思っています。

それを宣言している以上、今年はこれまで以上に御言を覚えることに真剣に取り組みたいと思っています。

わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。
エレミヤ15:16

おっさん
■御言を読めることや覚えることができることは大きな恵み

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