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日常の試練
日常生活において、普通に生活を送っていたら、おそらく誰でも必ず試練がくると思います。試練というのは困難な仕事そのものであったり、内面の葛藤、あるいは、この先の不安に対してどのように立ち向かうのか、などがあると思います。
また、ほとんどの人ができる限り試練は避けて通りたいと思うのではないでしょうか。なぜなら、試練の時は、往々にしてメンタル的にもきついだけではなく、内面が練られる時であり、自分の弱さやにくさがあらわになってくるからです。
試練の意味
もし、その試練の時が内面の弱さやにくさだけがあらわになって終わるだけなら、とても虚しいものです。時に、それは人から生きる活力も奪い取ってしまうかもしれません。
しかし、クリスチャンの生き方は、すべての試練には意味があると考えます。そして、その試練は自分が変えられないといけないところが変えられるべきだと捉えます。主の前に喜ばれない思いがさらに整えられるときだと捉えます。
先日のブログの内容でいうと、器が変えられる時です。試練を通して、器が練られます。時には器自体が壊されて全く新しい器を作り上げられることもあります。その過程を通して、器が大きくなり、器が使いやすいものになり、きれいに洗われた主に使われる器となるのです。
内面があらわになる
試練を通してあらわになる、取り扱われるものとは何があるでしょうか。例えば、心の中のネガティブな感情、例えば、ねたみ、そねみ、うらみ、不平不満、批判などがあるかもしれません。自分は誰かを許せていると思っていても、実は心の奥底にしまい込んでいるだけかもしれません。あるいは、高慢や高ぶりかもしれません。自分の力に頼って生きているという傲慢さかもしれません。
今は傲慢に思っていなかったとしても、例えば調子がいい時、順境の時、うまくいっている時には高ぶってしまう危険性があります。あらゆる製品にストレステストがあるように人間も試練というストレステストによって内面があらわになるのです。
あらわになったのちは
もし、神が愛するがゆえに与えてくださったストレステストで自分の脆弱性が明らかになったらどうすればいいのでしょうか。その時が主を呼び求める時になるのです。「主よ、私を変えてください。私を造り変えてください。」と主に近づくことができるのです。
そして、主の力が働き実際に、現実に私達を作り変えることができるのです。なぜなら、主が人間を造った創造主であり、陶器師であるからです。そして、この「試練→変えられるべきことがあらわになる→造り変えられる」を通して、主の似姿に変えられていくことがこの地上における希望のひとつなのだと思います。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
ローマ5:3-4