デジカメ
今ではデジカメを使っている人をめっきり見なくなりました。スマホのカメラの性能が著しく向上し、わざわざデジカメで撮影しなくてよくなったからだそうです。10年くらい前は画素数○○万と高画質のカメラやガラケーが出る度に驚嘆し、飛びついていたのですが、今では高画質が標準化して、そこを追求する人はせいぜい一眼レフを使うガチ勢だけのような気がします。高画質、高解像は一般人が気にならないほどに当たり前になったようです。
一方、テレビはハイビジョンから4K、さらには8Kと大画面・高解像度の傾向が強いですが、そもそものテレビ離れとZ世代の習慣から必要とされる世代は限定的だと思います。そもそも大画面のテレビだとインテリア的に広いリビングが必要ですし、ソファーに座って大画面で見るよりは、ベッドの上などで寝転んで片手で映画が観れるほうが受け入れられるのだろうと思います。
高画質・高解像を追求
これまで、高解像度、高画質を追求されてきたのは、再現性の高いものをいつでも見れるようにしたいという願望があったのだと思います。または、はっきりと見たいという願望もあるのかもしれません。たとえば、視力が落ちると景色がぼんやりしますが、そのままぼんやり景色のまま生活を続ける人は少なく、メガネやコンタクトをつけたり、レーシック手術などで、はっきり見える状態を維持しようすると思います。
様々な分野でも同じ
はっきりみたいのは何も画面上の映画や現実の景色だけでなく、経済、金融、政治、哲学、文学、各種学習項目にも当てはまると思います。例えば、ある分野の勉強を始めると最初は全体像も全くわからず、勉強を続けていくことになります。しかし、学習が積み重なると全体像はわかるようになり、更に知識の点と点が繋がり、線となり、やがて面になり、その分野において明るくなります。つまり、言い換えると、その分野での解像度が上がり、より明確に見れるようになったということでしょう。もし、知識量が少ないと、ぼんやりしてしまっており、深い意味で理解できていないかもしれません。
高解像のイエス・キリストの栄光
高画質・高解像度で物事を見たい、知りたいという願望が人間を成長させるのだと思いますが、キリスト教も似ています。キリスト教で唯一追求するべきことは、イエス・キリストご自身です。聖書にはこのように書いてあります。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
ヘブル12:2
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
テモテⅡ2:8
皆さんにはイエス・キリストがどのように見えていますでしょうか。それは宗教画や映画で見る人としての姿のイエス・キリストではなく、栄光の姿としてものエス・キリストです。また、哀れみといつくしみに満ちた神の子なるキリストの徳でもあります。もし霊の目で見えている姿が高解像度だったら、その人はイエス・キリストとの交わりが強く、イエス・キリストの人格が強く影響されている人だと思います。
僕は、恥ずかしいながら、かなり低画質のイエス・キリストしか見れてないです。ですので、イエスを仰ぎ見つつ、いつも思うように生活したいと思います。