一人の時間
今週の土曜日は数か月ぶりに嫁さんがこどもを連れて友達と遊びに行きます。ということは、、、「一人の時間」ができます!自分を弁護しておくと僕は家族と過ごす時間が好きですし、平日こどもと関われてない分、できる限り土日にかかわりたいとも思っています。
じゃあ、「子どもや嫁さんと過ごす時間がなくなるので残念に思うのでは?」と詰められそうな気もしますが、そうでもありません。なぜなら、イエス様と集中して過ごす時間を確保できるからです。僕は何よりもこの時間を喜びとしています。だから、今週の土曜日は楽しみでしかたがないのです。
祈りの時間が至福の時間
かつて、一人の時間ができると本を読んだり、動画を見たり、銭湯へ行ったりと自分の好きなことをして過ごしていました。しかし、結婚してまもなく少しずつ意識が変わりはじめ、年に数回あるかないかの一人の時間はイエス様との時間にしたいと思うようになりました。それは下記ブログでも書いています。
僕は超保守的な福音派の教会に行っていますが、ペンテコステ派のバックグラウンドを持っています。このプライベートの祈りの時間が至福の時間だと身をもって教えてくれたペンテコステ派の指導者や先輩クリスチャンの方に感謝しています。
祈りに対する態度
もし、そういった指導を受けていなかったら、僕は祈りとは自分の願望を述べるだけのものであって、決して主との個人的な交わりであると捉えることはできなかったと思います。また先輩クリスチャンの姿勢を見ていなかったら、祈りとは数分で終わるものであって数時間続けるものではないと思っていたことでしょう。
自分の姿勢を見て思います。テレビや動画は何時間でも見れるのに、祈りは数分しかできないというのは非常に不思議なことです。神を第一とするとわかっていながら主との時間をないがしろにすることは不可解なことです。
変人か?狂人か?
僕は今週の土曜日どこで祈ろうかと嬉しい悩みをしています。それは誰かとデートに行くことを考えるような感覚です。ここ数年は、ある時は銭湯、ある時は自分の部屋でした。しかし、今回は久しぶりに母教会がある裏山に行って祈ろうかと思っています。行くまでに時間はかかりますが、そこが僕の祈りの場所の原点だからです。
はたから見たら、変人にしか見えないと思います。しかし、実はこれはイエス様が当たり前のようにされていたことです。だから、僕は一人で山に祈りに行くことが少しも変なことだとは思いません。なぜなら、主と共にいくからです。