0700_僕の重荷とは「まだ負っていない思い煩いや心配」だった件

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新しいチャレンジに対して

皆さんは、例えば、仕事や教会や家庭などで新しいプロジェクトや奉仕や役割が与えられる時、どのように気持ちになりますか。よし、やったろ!と気合が入る場合もあれば、果たして自分につとまるのだろうか?不安に思う場合もあると思います。

職場や家庭や教会であれ、既存の役割以外に、さらにやることが増えるとなると、おそらく自分の時間を削ることを求められると思いますし、さらに多くの認知も新しいこと奪われることになるでしょう。もしかしたら、趣味に充てる時間や休息の時間が減るかもしれません。

できるか、どうか

新しいこと任される時は、自分の精神的、肉体的なキャパで対応できるかが重要になるのですが、ほとんどの場合、新しいことはやってみないとわかりません。やってみて、適応させつつ自分を調整して、できそうなら続けて、無理そうなら関係者に相談ということになるかと思います。

僕個人的には来年度から割と大きな役割を任されることになり、ここ一週間は少しだけ思い煩っていました。「よっしゃ!やったろ!」タイプじゃないので、自分の時間がなるなるとか背負い切れるのだろうかとか色々心配していました。

さらに忙しくなって、ぱっつんぱっつんになると、自分が日常的にイライラしてしまって、その結果、周りに迷惑をかけるんじゃないかとか思っていました。

重荷とは

しかし新しいチャレンジを受け、イエス様に祈る中でイエス様は語ってくださいました。それはこの御言です。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイ11:28-30

僕の重荷とは「まだ負っていない思い煩いや心配」だと教えられました。さらに言えば「背負う必要のない思い煩いや心配」です。重荷というと、何か外から強制的に背負わされるものや実体を持ってそうなイメージですが、実際は自分で勝手に重荷を作って、自らそれを背負っているという場合があるのです。

魂に休みが与えられるため

そして、イエス様が僕に与えようとしてくださっている新しいチャレンジは、「もし、僕がイエス様のくびきを負うなら、そのチャレンジの荷は軽いものなんだ」ということです。

僕は自分のことばかり心配していましたが、この御言で前に進む力が湧いてきました。イエス様を選択し続ける限りは、その荷は軽いだけでなく、魂に休みまで与えられるから、喜んで新しいチャレンジに受けてたとうと思いました。

おっさん
■主が牧者なら僕は何をおそれよう

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