0701_そんなにも自分が大切ですか?

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クリスチャンと自称するなら

クリスチャンの生き方とは、下記の御言のような生き方です。

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
マタイ16:24-25

これに対して人間の本来の性質は真っ向から抵抗しようとします。なぜなら、人間は自分こそが大切で、自分の命こそが大切だからです。どれだけ優れた徳や品性をもっていても、突き詰めていくと、誰でも自分の命が大切と思うものです。それが正直な気持ちだと思います。しかし、それは、「見えているところ」で判断した場合に限ります。

見えないもの

もし、見えない存在、つまり、永遠なる存在を信じる生き方をするとどうなるでしょうか。聖書によれば、この地上は一時的な場所であることがわかります。また、この地上での命は撒かれた種のようなものです。つまり、永遠の天の国こそが、本番であり、そこの花を咲かせるために今自分という種を撒くのです。

聖書にもありますが、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、肉の体がこの世界の自分です。そして、それを撒くことによって、朽ちないもの、栄光あるもの、強いもの、霊の体に蘇るのです。それはつまり、冒頭の御言である、自分を捨てることに行き着きます。

自分を捨てる時

自分を捨てる決断ができれば、そこからイエス様の命の泉が流れ出ます。自分を捨てる決断ができれば、そこから恵みや祝福が周りに広がっていきます。自分を捨てることができれば、神の救いが広がっていきます。自分を捨てることができれば、御霊の実を結ぶことができるようになります。

もし、自分を捨てることができないなら、イエス様の命の泉も流れ出ないし、恵みも祝福も救いも周りには広がっていきません。それは、流れ出ることがない死海のようなものです。自分を生かそうとすれば死ぬのです。それは逆説的ですが、真理です。

祈ることしかできない

「じゃあ、お前は自分を捨てる決断ができているのか?」と聞かれると、捨てれていないと思います。なぜなら、「僕の周りで救いが広がっていない」からです。神の救いが広がっていない以上、僕はまだまだ自分が大切だと思っている証拠です。

だから、祈ります。このように祈ります。

「どうか、自分を捨てることを学ばしてください。そして、捨てる力を与えてください。そして、神の救いを見せてください」と。

おっさん
■自分の本来の性質は真っ向から神に敵対する以上、祈りのよってでしか自分を捨てることはできない

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