0443_言葉の力とイエス様の言葉

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人間の言語能力

人間は優れた言語能力をもっています。言葉の力は絶大なもので、ポジティブに働けば人を生かし、励まし、強くしますが、ネガティブに働くと、人を殺し、落とし、弱くしてしまいます。この言葉をうまく使って自分自身を制御することができれば、かなり人生がらくになるのじゃないかと勝手に考えています。

乗り切る言葉

例えば、「喉元すぎれば熱さを忘れる」という言葉があります。直面している最中は必死で「もう詰んだ!」とか「もう嫌だ!」とか逃げたくなるような気持ちにもなるのですが、その過程が終わると、意外とその過程に感じた感情は忘れてしまったりするものです。

例えば、個人的にはランニングしていると、息が上がってきて、「あーもう早く歩きたい!」という気持ちになります。しかし、走り抜くと、先程までは酸欠になって倒れ込むんじゃないかと思っていても、走ったあとは爽快感のほうが強く、また走りたいと思ってしまうのです。

書き換える言葉

その他、人間は直面している「現状の解釈を言語で書き換える」ということもできます。「あーだるい」と言ったら、本当にだるくなります。しかし、「これにも意味がある」とか「ここから何かを学ぼう」とか「ありがたい、感謝だ」と言葉で解釈を書き換えることで、直面しているネガティブな状況を完全に真逆に書き換えることさえできてしまいます。

ただやっかいなのは、頭ではわかっていても、感情がついていかなという場合だと思います。特に特定の人に対してネガティブな感情が強固に紐付いている場合は、そういった書き換えが難しくなります。「あの人はあーいう人だから」とか「本当にあいつは!」みたいなすでにネガティブな先入観が強くあると言語での書き換えは難しい場合が多いです。

聖書の言葉

そこで聖書が提案している方法が、まず人間の根本にあるそういったネガティブな感情、うらみ、ねたみ、そねみ、苛立ち、怒りなどをイエス様のところに持っていきましょう、というのです。ただたんに、それをイエス様に丸投げするわけではありません。イエス様が「天国は近づいた。悔い改めなさい。」とおっしゃったように、悔い改める時に、イエス様の十字架の御わざが一個人に働き始めるのです。

個人的には36歳のおっさんが「イエス様、僕はねたみたくなくても、ねたんでしまいます。僕は怒りたくないのに、怒ってしまうのです。どうか、こんな罪深い愚かな僕をゆるしてください。」と祈る時に、イエス様が助けてくださるのを何度も体験しています。もし、言葉で自分を制御することに限界を感じた場合は、イエス様のこのお言葉に耳を傾けるのが最善です。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイ11:28-30

おっさん
■言葉の力は普遍的なものである。
■その中でもイエス様の言葉には力がある。

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