自分が大切
最近強く感じることは、人は自分が思っている以上に、自分のことを大切に思っているかもしれないということです。例えば、聖書でパウロはこのように書いています。クリスチャンに対して書かれた手紙で、かなり辛辣ではありますが、ドキッとするような言葉が書かれています。
人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
ピリピ 2:21
例えば、祈るのも、恵まれることも、満たされることも求めることは全く間違っていないと思います。ただ少し認識が違ってしまうと、自分中心になってしまう危険性があると感じています。例えば、もし自分が恵まれたいから、自分が満たされたいから、「自分が!自分が!」となってしまうと、いつまでも幼子のクリスチャンのままになってしまうということです。
幼子のクリスチャン
パウロはこのようにも書いています。幼子の状態だと、堅い食物を食べれず、大人のクリスチャンになれないのです。
あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
コリントⅠ 3:2
僕自身は、現在上記のような状態にあるのを認めざるを得ません。祈る時に、自分の主観を大切にしてしまって、神中心、神が主権を持っておられる、神だけが崇められるべきという本来の正しい関係からずれてしまいそうになることがあるのです。
大人のクリスチャン
僕が思っている大人のクリスチャンとはダニエル書に書かれているシャデラク、メシャク、アベネデゴのような信仰です。たとえ、火の中に放り込まれることがあっても、主が助けてくださいます。しかし、たといそうでなくても、私達は主を裏切ることはしません。という「たといそうでなくても」という信仰だと思います。
もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
ダニエル3:17-18
僕は「たといそうでなくても」という自分を完全に明け渡す祈りができていない場合が多です。しかし、主が主権をもっておられて、主がすべてを治めておられるので、僕の考えや予定や思いなどは神様の御心が実行される上では、邪魔な存在でしかないと思うのです。
目標
「たといそうでなくても、イエス様に仕えるように○○さんに仕える」生き方できるように祈り求めていきたいです。
■大人のクリスチャンとは自分を捨てて、主にすべてを明け渡す事ができる人なのかもしれない