1497_誰に対しても本当に「主は良いお方」か?

「主は良いお方」

「主は良いお方」です。主により頼む者は決して失望に終わることがありません。イエス様との十字架の血潮によって贖われた者は天の父との関係が回復されます。つまり、主が最善をもって人生を導いてくださることを意味しています。必要なものはすべて主が備えてくださるのです。

しかし、僕は時にパブリックな祈りで「主は良いお方」と言っていいのか躊躇することがあります。それはクリスチャンのコミュニティーであっても様々な状況に折られる方がいらっしゃるからです。

パブリックな祈りで

クリスチャンになってからも過去に悲痛な体験をされたり、現在病や様々な患難で苦しんでいる方がおられるからです。そういう人たちがいるところで、パブリックな祈りで「主は良いお方」と宣言した場合、その人たちがはう思うのか?と思ってしまうからです。

むしろ、「お前は今つらい状況にいないからそんなことが言えるのだ」と思わるのではないか?とさえ思うことがあります。だから、なかなか「主は良いお方」だと言いづらいと思うことがあります。

昨日も今日もいつまでも変わらない

しかし、主は昨日も今日もいつまでも変わらない以上、主はいつも「良いお方」であります。気分によって気難しい主人になったり、偏見をもったり偏愛したりそういったことはないのです。主は確かにいつも「良いお方」なのです。それは信仰によって宣言し信仰によって受け入れるものだと思います。

もちろん、僕は現時点で悲痛な状況に置かれていないので、僕が心身ともに弱い立場に置かれた時に主は「良い方」と宣言できるかどうか、僕にはわかりません。

恵みと憐れみと愛が大きすぎて

しかし、39年間生きてきて言えることがあります。それはその時々で、その年齢に応じてつらいと思えるような状況を通った時でさえも、確かに「主は良いお方」だと確信をもって思った経験です。

それは何も僕の信仰が強くてそう思ったというのではありません。ただ一方的に主の恵みと憐れみと愛が大きすぎて「本当に主は良いお方だぁ」と涙をもって思う経験があっただけです。つまり、僕は何もしていないです。

聖霊が働かれてほしいと強く祈る

もし、僕がパブリックな祈りで「主は良いお方」だと宣言するならば、その場にいるすべての人に主が働かれて主の恵みと憐れみと愛が大きすぎて「本当に主は良いお方だぁ」と思えるほどに聖霊が働かれてほしいと強く祈ることだと思いました。それは、聖霊に満たされることと同義だと思います。確かに僕はそのことを願っています。

すべては人の働きではなくて主の働きであり、聖霊の働きです。僕はそれを追い求めていきたいと思います。

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