1275_「結局、口だけのクリスチャンだよね」と教えられるのは非常につらい

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肉において苦しまれた

先日からこの聖書の御言が心に留まっていました。

このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。
ペテロⅠ4:1-2

なぜ心に留まったかというと、「肉において苦しんだ人は、それによって罪から逃れた」とあったからです。僕はこれまで以上に罪から逃れたいと思うようになりました。その秘訣が肉において苦しむことにあるなら、それを受け入れたいと思ったのです。

主に対して不真実だ

その罪とは誰かをねたんだり、怒ったり、神様に喜ばれない思いを心に抱いたりなどわかりやすいものもあります。しかし、僕が罪から逃れたいと思ったのは自分が主に対して不真実だと教えられたからでした。

そうなったのは、気づかないうちに僕が自分の義により頼んでいたからです。自分の義とは行いによる義です。自分では日々祈り、聖書を読み、礼拝を捧げ、奉仕をしており、主の前に少なくとも合格点はいっていると思っていたのですが、それは全く意味がないということを思い知らされました。

簡単に言えば言っていることとやっていることが違うということです。自分の祈りの言葉や告白と実生活が全く一致していないのにそれに気づいていなかったのです。

結局、口だけのクリスチャンだよね

しかし、この肉的に非常に悲痛な体験は、霊的にはよいものをもたらしてくれました。それは、自分の力で主のためにやっていることはすべて無駄だと分かったからです。主により頼め、主に信頼せよ、主が第一、主がわたしのすべてとは言っていても、僕の心は全くそうは思っていなかったのです。そう思っていないからそれが行動にも現れてきてこなかったのです。

そこそこ真面目に信仰生活を送っている思いこんでいただけに霊的に「結局、口だけのクリスチャンだよね」と教えられるのは非常につらいことです。それが僕にとっては、肉において苦しむことでした。

しかし、肉において苦しむことは決して無駄じゃありません。聖書に書いてあるとおり、それによって罪からのがれ、そして、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすことができるためです。

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