1254_刻一刻と自分に死ぬ

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神を愛するとは

僕には長い間理解できていない御言がまだまだいくつかあります。いくつかは少しは理解に近づきましたが今も理解はまだまだ浅いものが多いです。それであっても少しは主の御心がわかるようになれることは僕の喜びでした。

たとえばこの御言です。この御言との格闘は何度もこのブログで取り上げてきました。

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。 そして、その戒めはむずかしいものではない。 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。 そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
ヨハネ5:3

自分でやろうとしていた

僕にとってこれまで聖書の戒めを守ることは難しいものと思っていました。なぜなら聖書の戒めは心の中で起きることも対象になるからです。誰も知らなくても僕自身は自分の心の汚さや暗さを知っています。むしろ、僕自身がまだ自覚できていない闇の部分もあると思います。それは環境や状況が変わった時にテストされて顕わにされるものです。

しかし、難しいと思っていたのは自分でやろうとしていたからでした。もちろん僕はずっとクリスチャンとして歩んできていたので、自分でやろうとしているなどとは思ったこともありませんでした。ずっと主により頼んでいると思い込んでいただけなのでした

選択を迫られる

しかし、もし、日々、むしろ、刻一刻と自分に死んで、主に委ねることができるのであれば本当に難しいものではないということがわかったのです。それは本当に聖書に書いてあるとおりでした。僕がこのことを知ったことは常にそれができることを保証するわけではありません。

言い換えれば、日常生活を送る中で選択を迫られるということです。少しネガティブな表現をすれば揺れているということです。

だから、僕が自分の力により頼み、自分中心に生きようとして、神さまをないがしろにする生き方を1秒でもしようとするなら、僕は瞬く間に敗北してしまいます。しかし、1秒たりとも自分に死ぬことをいとわず主に助けを求め続けるのであれば、主が十字架で勝利されたように本当にその勝利にあずかれるということがわかりました。

主にあっては

過去の僕のように「難しい」「難しい」と連呼することは間違ってはいないと思います。確かに肉においては難しいのです。これは当然です。

しかし、主にあってはその戒めはむずかしいものではない!と宣言したいと思います。

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