0298_救済措置としての神の声

信念が揺らぐとき

信念をもって生きていても、時にその信念が瞬間的に、あるいは一時的に揺らぐことがあると思います。例えば、ヴィーガンの方だと、ジューシーな肉の焼けるにおいがステーキ屋から漂ってきたとき、反射的に、あるいは瞬間的にお肉が食べたいと思うかもしれません。しかし、自分の信念によって理性にて自分を治めるのです。また、仮想通貨には参入しないと決めていても、Bitcoinが暴騰している様子を見たり、億り人になりました!みたいな人が身近にいたりすると、損した気になって参入意欲が起こるかもしれません。

こういったことは、山に籠るか、限られたコミュニティで生きるなどの選択をしない限り、日常的に起きることです。自分の信念とは異なる考えに触れて、揺らぎそうになっても、強い信念で突き放すことを繰り返すと、おそらく、そのあたりのシナプスが強化されて、その信念がより強化されるように思います。

クリスチャンはよく信仰の戦いと言いますが、これは以上の信念の戦いと全く同じ構造です。聖書の価値観に基づいて生きようとすると、日常的に接する価値観と対立し、葛藤が起こります。時にはばかばかしく思えたり、妥協したくなったりするかもしれません。しかし、信仰の戦いに勝った者たちには何にも変えがたい神様の祝福と勝利の冠が与えられます。それは日々、信仰の戦いをして勝利している人だけが知っていることです。

信念の戦いにしろ、信仰の戦いにしろ、大切なのは、どの声を聞くかです。

4つの声

クリスチャンには4つの声が聞こえると言われています。それは、神の声、自分の声、世の中の声、悪魔の声です。神の声とは聖書の言葉であったり、時に神様から個人的に語られる言葉です。自分の声は、自分の考え信念、あるいは様々な声の影響を受けて結果的に出てくる自分の声です。世の中の声とは、様々な書籍からYoutubeやテレビ、さらに自分の周りにいる人たちの声です。最後は、闇の世の主権者である悪魔の声です。

エマソンの「自己信頼」や小説家アーノルド・ベネットなどの書籍には、自分の声こそが大切で、自分の声を聞き、それに従って生きていくことが主張されています。周りの言葉に惑わされず、自分を信じて生きる生き方です。ただ、僕はこういった自己啓発本を読んで腑に落ちなかったことがあります。それは、自分の声というのは、結局は遺伝的要因、教育環境、家庭環境、社会環境などによって大部分が形成されているということです。つまり、ある特定の人たちにとっては、自分の声の質は高いかもしれませんが、僕みたいな社会不適合者の人間の自分の声などは正直、あてにならないのです。

救済措置

自分の声もあてにならない。周りの声や悪魔の声に惑わされるのもごめんだ。そういった人たちの救済措置として、神の言葉があると考えています。聖書の言葉は生きていて力があります。そして、罪を示し、悟らせ、知恵を与え、生きるべきコンパスの役割も果たしてくれます。なによりも、神との愛の関係に入らせて頂けると、聖書の言葉がラブレターのような文言に見えてくるのです。

もし、人生で思い悩む時があったら、聖書を開いてみるのがいいかもしれません。神様は語りかけてくださると信じています。