著者から学習者に対するメッセージ
先日、統計学の本を読んでいた時に非常にはっとさせられる説明がありシェアしたいと思います。統計学の自由度dfという概念を学ぶにあたって、著者から学習者に対するメッセージがあったのです。
本章では、自由度 df の初歩を学びます。ただし、残念なことがあります。自由度 df の必要性や重要性を直感的に「なるほど」と納得することは不可能です。自由度 df は、統計学を支える数学の理論から生まれた産物です。「直感的な理解をまったく受け付けない」という特徴があります。読者は、このことを、本章を学ぶ前に知っておく必要があります。
「基礎から学ぶ 統計学 著/中島浩」
僕はこの潔さに感動しました。それは、決して「わかること」を押し付けるのではなくて、まずは「わからない」という前提に立つことを勧めているからです。
先日はAIは時にハルシネーションを起こし「わからない」という回答を避けたがると書きました。しかし、人間はわからないと明言できる強さがあると書きました。それに通じるものだと思ったのです。
「罪の赦し」や「主の復活」に関して
科学者などには謙遜な人が多い印象です。彼ら彼女らは人間の領域の限界を知っています。だからこそ謙遜になれるのだと思います。僕は信仰も同じだと思いました。これはタブーだと思いますが書こうと思います。それは、たとえクリスチャンであっても「罪の赦し」や「主の復活」に関してわかった気になっているのではないかということです。
そこで、今回の説明書きをクリスチャン信仰向けに置き換えてみます。
キリスト教信仰では、罪の赦しや主の復活と向き合います。ただし、残念なことがあります。罪の赦しや主の復活の必要性や重要性を直感的に「なるほど」と納得することは不可能です。それは罪の赦しや主の復活は霊的な領域のことだからです。頭で「直感的な理解をまったく受け付けない」という特徴があります。求道者は、このことを、信仰に入る前に知る必要があります。
主の前に降参する
この土台に立つとどうなるでしょうか。僕はこの土台に立つことによりこのような祈りが生まれるのではないかと思います。
「僕は罪の赦しや主の復活が聖書に書かれていることは知っています。しかし、僕はそれを本当に霊的な深い領域でわかっているわけではありません。主よ、どうか聖霊によって深い霊的な領域においてあなたの罪の赦しと復活を悟らせてください。」
もしかしたら、こういった態度に対してある人は「それは信仰ではない」というかもしれません。なぜなら、ある面においては、わからなくても信じることこそが信仰だという主張もあると思うからです。
今も生きているイエス様を体験する
しかし、罪の赦しと主の復活に関しては、僕はこの立場に真っ向から反対します。罪の赦しと主の復活はわからなくても信じるというものではなくて、確かに今も生きているイエス様を体験するものと思っているからです。しかし、それには前提があります。それは「肉においてはわからない」と主の前に降参するということです。
これは僕が今できているというのではなくて、いつも主の前に自分の限界を認めて近づくことが求められていると思います。