0878_神様にとって使いにくい器

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学んだ奉仕観

ここ数か月で教会の奉仕をする時の姿勢を学んだ気がしています。それは自分主体の奉仕がある時以上に他の奉仕者のため祈ること。また、奉仕前に祈る以上に奉仕後に祈るということです。

僕はこれまで自己中なので、これらと真逆のことをやってきました。自分の奉仕がある時だけ必死で祈る。奉仕前に神様が働いてくださるように祈る。といったものでした。

しかし、その姿勢の裏には自分自身は教会全体として神の栄光を求めない。また一貫性のあるうえ渇きではない。ということが見え隠れしているのは明らかです。

へりくだっている器なら

もし、本当にへりくだって心から礼拝での祝福や神様の恵みの体験を求めるのであれば、自分の奉仕に固執する必要はありません。いつも、同じ気持ちで礼拝に臨むはずです。しかし、もし自分深いところに隠れている「自分がよく見られたい」とか「自分が主に用いられていることを示したい」とか「自分だけが恵まれたい」とかどす黒く汚いものがあれば、そういった姿勢になってしまうのです。少なくとも僕はそうでした。

確かに神様は憐れみ深いお方なので、たとえ僕がそんな不純な動機から奉仕をしていても、僕のその時々の成長に応じて憐れみによって働いてくださっていたと思います。しかし、成長するにつれて、僕も変えられないといけません。ここ数か月はそれば僕の課題だったようです。

平日に主を求める

学んだことは、そんな自己中心的な気持ちから奉仕したくないと思うのであれば、自分で生きようとせずにイエス様と平日しっかり歩むということです。平日に日曜日以上に主に飢え渇いて生きる時に、僕の心の奥底にあるどす黒く汚い思いがキリストの聖さによって明らかにされ、悔い改めによって十字架によって浄化されるプロセスを経たのです。

僕は本当に自分のことばかり考えている神様からしたらきっと使いにくい、ともすれば使えない器でしょう。ただただ、神様の忍耐によって、憐れみによって、関与だからこそ、日々、もっとイエス様に飢え渇いて求めて主に間に合う器になりたいと心から強く願っています。

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