自由時間に歓喜
今日は朝から嫁さんと息子が嫁さんの友達と遊びに行ったので、久しぶりの自由時間がありました。一週間ほど前に遊びに行くことがわかったときに、(こんなこと書くと怒られそうですが)心の中で歓喜しました。さて、久しぶりの半日ほどの時間を何に使おうとワクワクしたのです。
しかし、本日当日になっても特にやりたいことは思いつかなかったのです。基本的に週末は教会のことと家のことで自分の時間などないのが当たり前になっていたので、いざまとまった自分の時間が付与されたときに、ふと何をしよう?となったのです。
やりたいことがない
いつもGoogleマップで見ているラーメンを食べに行こうか?とかスーパー銭湯に行こうか?あるいは、小説でも買って読書に没頭しようか?とか音楽を作ろうか?など思いましたが、どれも心惹かれませんでした。というよりも意欲が全くわきませんでした。
もしかしたら、結婚した男性って誰もがこんな感じなるのかもしれません。あれほど一人の時間が好きで、死にものぐるいで一人の時間を確保しようとするほどだったのに、共同生活に慣れてしまったら一人の時間に戸惑ってしまうのです。結局、朝はいつものように教会に行って週報を作って、昼からは祈って聖書を読んで筋トレだけしました。
結局、喜びのピークは自由な時間を享受しているときではなく、自由の時間があるとわかった時だったのです。
ピークは手に入れた時
もしかしたら、多くのことはそうかもしれません。例えば、欲しい物があってアマゾンで購入する場合、喜びのピークはポチったときにあるのではないでしょうか。いざ物が届いたら「あれこんなもの注文してたっけな?」とかあるものです。
書籍の購入やオンライン学習サイトの教材なども同じように思いす。読んだり、勉強しているときに喜びがあるのではなくて、買ったときがピークなのです。買って満足してしまうのはそういうことだと思います。僕の場合は、お金を払って買ったから、読まないと損として読むこともしばしばです。
際限のない欲望
これは本当に人間の欲望の本質だと思います。手に入れた瞬間がピークであり、その瞬間だけ満たされます。しかし、その瞬間からその欲望は別のものに向けられるのです。そして、その繰り返しをずっと続けるのです。
僕自身を見てて思うのは、その欲望を満たして、また次の欲望へという際限のない生き方が虚しいということです。しかし、イエスキリストは違います。彼を手に入れた者はすべてを手に入れるのです。そして、欲望は、神への乾きと変わり、神を求めて満たされていく生き方に変わっていくのです。