文字を読むという体験以上
昨日は聖書には力がありますが、その力がすべての人に等しく表れるわけではないと書きました。聖書の力を体験するためには知性で読むだけではなく、霊で聖書を読まなければならないと書きました。そして、それは僕自身の体験とも一致しています。
主に出会うまでは、聖書は僕にとって「読まなければならないもの」でした。しかし、主に出会う体験をしてからは聖書の言葉のほうが自分に対して熱く語りかけてくるように感じるようになりました。それは、紙の上に書かれている文字を読むという体験以上のものでした。
直接語ってくださる
自分に対して神様が聖書を通して直接語ってくださっているということに感動、感激、涙する体験だったのです。僕はそれまでは義務的に聖書を読んでいましたが、その体験をしてからは、読みたいと思える書物に変わりました。今では考えられませんが、当時は1年間で3回も聖書を通読していました。
じゃあ、霊で聖書を読むとは具体的にどういうことなのでしょうか。これは僕の持論なので正確性に欠けるかもしれません。主観ではありますが実体験として考えたことを書こうと思います。
霊で読むために必要なこと
聖書を霊で読むために必要なことの一つは魂が救われることです。これなくして霊的な生活はありません。なぜなら、魂が救われない限りはまだ罪が天の父と関係を断絶しているからです。イエス様の十字架によって贖われる時に天の父との和解が個人的なこととして実現します。
次に、教会に所属するということです。僕は教会なくして霊的な生活はないと確信しています。なぜなら、イエス様は教会にあらゆる権威を授けられたのです。その教会という霊的なコミュニティーに所属することで主が語ってくださるのです。
求める心
最後に、自分自身が主ご自身を切に求めるということです。求める心なくして与えられることは決してありません。求めるものに主は与えてくださるのです。
求める方法には大きく、賛美する、祈る、聖書を読む、説教を聴く、教会の交わりに参加するなどがあります。そのいずれも主に近づくにはいい方法です。しかし、その中でも受け身と能動があります。たとえば、Youtubeなどで説教を聴いたり賛美を流すことは受け身です。
しかし、一人で賛美する、祈る、聖書を読むの行為は能動的です。僕は主に近づくにはこの三つが一番いいと思っています。













