神に近づくとは
祈りと御言によって神様に近づくということはどういうこかを考えました。ある時は、一回の祈りで神様の深い臨在を感じるほどに近づけることもあると思います。しかしそうじゃない場合もあります。一定の期間ずっと求める中で主が近づいてきてくださり、光を照らしてくださることがあります。
そして、その期間中には往々にして自分の変えられないといけない性質が露わになってくることが多いです。それは、世的に見たら大したことじゃないかもしれません。自分から見ても「これは許容範囲」とか「これくらいはいい」というような妥協ゾーンである場合があります。ほとんど祈らなければ、神様に示して頂かなければ気づかないレベルのものかもしれません。
近づく時にあらわにされるもの
しかしながら、そのわずかな自分の古い性質を十字架の血潮によってきよめて頂く必要があるのです。確かにイエス・キリストを信じた時にすべての罪は赦されました。そして、確かに新しく造り変えられました。しかし、それは霊が救われただけであって、この魂は清められ続ける必要があります。
もし十字架の恵みだけですべてが完結するなら、クリスチャン人生のピークは救われた時になってしまいます。しかし、実際はそうじゃありません。信仰の導き手であり、その完成者であるイエス・キリストを見上げて、彼が聖なる者であるように、自分自身もあらゆる行いにおいて聖なる者となることが要求されています。
そして、それは決して律法的なものではなくて、強制的にやらされるものでもなくて、ただ、イエス様の愛に応えたい一心で自分が聖められたいと願うものです。
こべりついた性質
僕は自分自身に長年こべりついた古い性質を自覚しています。こべりついている面積は大したことはありません。だから、遠目で見ると汚れがないようにも見えるのですが、直視したり、光に照らされると汚いことがよくわかります。
しかし、その汚れは自分では取り除くことができません。カチコチに固まった昭和のガムの如くこべりついているからです。だから、イエス様の血潮の力が必要です。祈りや御言の中で主にもっと近づきたいから、自分の古い性質を認めて、悔い改めて近づいていきたいです。