0822_してはいけないことがわかっているのにやる大人

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赤ちゃん真っ白な状態で生まれてくる

赤ちゃんを見ていてかわいそうだぁと思うことがあります。それは「何がしていいいことなのか」と「何をしてはいけないことなのか」がわからないまま、やりたい放題やってしまって怒られてしまうことがあるからです。もちろん、赤ちゃんは何度も失敗しながら、認識しながら経験をつんで学んでいくものなので、親は寛容な心をもって育てる務めがあります。

しかし、例えば、髪の毛を引っ張るとか玩具を人に投げつけるといった行為は、できるだけ早くうまいこと教えてあげる必要があります。親にするならまだしも、他人の髪の毛を引っ張ったり、おもちゃを投げつけたりしてはいけないからです。

赤ちゃんは学ぶ

赤ちゃんは親の強い口調の「めっ」とか「こらっ」という声を聞くと大声で泣きます。それは、自分が大好きなお母さんやお父さんに怒られたことがショックだからです。その一方で、自分がしてはいけないことをしたこともしっかりと認識しています。

しかし、それ一回で学んでくれることはほとんどありません。赤ちゃんとて忘却がありますし、忘れては気づいてを繰り返して学んでいきます。また時には本能が強く出てしまって自制できなくなることもあります。親は赤ちゃんがそれをしないようになるまで、うまいこと赤ちゃんに気づきを与えてあげ続ける必要があります。

わかっているのに学ばない大人

そんな赤ちゃんを見ていて思ったのが、自分は大人で「していいことと悪いこと」や「善悪の区別」をわかっているにも関わらずそれができていないということです。僕はすべての人に寛容でしょうか。誰かにイライラしてないでしょうか。偏狭な心で人に接してないでしょうか。受け入れることができない人はいないでしょうか。必要な人に関心を持っていきているでしょうか。そもそもずっと自分中心で生きていないでしょうか。

この世界の道徳の規準で見ても、あるいは聖書の基準で見ても、僕は「何をすべきか?」はわかっているにもかかわらず、それができないでいるのです。小さな赤ちゃんですら、学んでいくのに大人である僕は一向に学んでないように思います。

キリストを見上げる

僕自身は変えられる必要があります。まず自分の変えられないといけない部分を直視すること。そして、自分の努力で変えられるところはがんばります。しかし、自分の自己中心的な性質はイエス・キリストの十字架の力がなければ帰られることはできません。日々、自分の十字架を負って、自分の古い性質を十字架につけ続けて、変えられていきたいです。

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