生成AIと自分で書くこと
先日「こどものための作文セミナー」なるものに参加しました。理由としてはここ数年の自身の問題意識に対して解決が与えられるのではないか?と思ったからです。問題意識とは、「生成AIに書かせること」と「自分で書くこと」の違いをどう教育するべきか?というものです。
僕自身はこのブログや日々の日記によって「自分で書くこと」をしている一方で、仕事でかなり積極的に生成AIを利用しています。将来子供から「学校の課題を生成AIでやりたい」と問われた時にどのように回答すべきかわかりませんでした。
矛盾している想定問答
僕の想定問答はこのようなものでした。
「生成AIで答えそのものを出すのはだめだよ。でもアイディア出しや壁打ちならいいよ。」
しかし、僕自身は仕事の実務のアイディア出しで生成AIが出力したテキストが非常に使えるため、そのままコピーして資料に使うということもしていました。そうなると、自身がやっていることと子供に言っていることとの間に矛盾が生じてしまうことになります。だからこそどのように区別して教育すべきかわからなかったのです。
頭で考えることの見える化
しかし、セミナーに参加してすべての解を得ることができました。まず「生成AIに書かせること」と「自分で書くこと」について、それぞれ目的が全く違います。自分で書くことの目的は下記になります。
書くことは頭で考えることの見える化
自分が考えていること、内面のこと、あるいは他者の心の変化、また環境、状況の変化などは書かないと見える化されません。またアイデアやインスピレーションも書かないとすぐに揮発して忘れてしまいます。つまり、書くことによって人は考えられるようになり、考えることで書くようになるのです。それは生きる力へと繋がっていきます。
その一点において、生成AIは自分の代わりに考えてはくれません。もちろん、プロンプトによって素材を与える事で考えてくれるでしょう。しかし、それはその人自身から完全に切り離されており、その人の無意識、深い内なる思いからは出てこないのです。
コップの水が溢れるまで待ちましょう
また子供にいつから書くことを教えるか?ということについても教えて頂きました。セミナーの最後の質疑応答の時に僕はこのような質問をしました。
セミナーの講師の方は、こうおっしゃいました。
僕は震えてしまいました。僕はてっきり具体的なテクニックや手法が聞けると思ったのですが、おっしゃったのはまさに親の子に対する「あり方」であり、これが本質だと思ったからです。
また、それ以外に子供が表現したい(書きたい、作りたいなど)と思った時にすぐに手に取れる環境を作ってあげるのはいいことだともおっしゃっていました。
忍耐の心を持って祈り続ける
「コップの水が溢れるまで待つ」というのは、子供の救いに関しても言えると思います。ともすれば親は目に見える宗教行事に参加する子の姿を見て安心したり、無理やりにでも信仰を持たせようとするかもしれません。しかし、大切なのは環境を用意してあげて忍耐の心を持って祈り続けることです。そうすれば必ず時が来ればコップの水が溢れて主を救い主としてお迎えするのだと思いました。