明け渡していなかったもの
昨日は「変わること」と「きよめ」と関係のことを書きました。さらに、きよめとは「主に明け渡す」という行為から始まるということも書きました。僕が明け渡していなかったものがあります。それは信仰生活です。僕の信仰は祈り、御言、断食、奉仕によっており、完全に主にはよってはいなかったのです。
より具体的に書けば、それは「これだけ祈れば…、これだけ断食すれば…、これだけ人を愛して奉仕すれば…」という態度の信仰です。僕は自分がこんなことを思っているなんて思いもしませんでした。なぜなら、僕は主を愛してただ主と共に生きたいと思っていると思っていたからです。
主への愛という動機
しかし、僕の無自覚の領域、心の深いところでは「そう思っていた」ということです。それは主に対する純粋な愛ではありませんでした。宗教行事、行いによる主との関係だったのです。もちろん、祈り、御言、賛美、断食、奉仕は非常に重要です。それなしで信仰生活はありえません。
僕には何よりも大切なのは主への愛という動機が完全にかけてしまっていたのでした。もちろん、僕は主を愛するという動機が完全になかったわけではなかったと思います。問題はその純度です。純度の高い愛は純粋な愛であり、純愛です。
では、主への純粋な愛はどのようなものでしょうか?それは冒頭に書いたように「明け渡している心」です。主はその心を喜んでくださるお方です。マタイによる福音書にはこのようにありますが、これが明け渡している状態の一つだと思います。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
マタイによる福音書 6:26
完全さを求められる領域
まず主はすべてにおいて人間に完璧を求めることはされません。なぜなら神様は人間がちりにすぎないことを覚えておられるからです。そもそも、人間は失敗を避けられないからです。しかし、完全さを求められる領域があります。これは聖書を読んでていも見逃しがちなことがあると思います。
神が完全を求められる領域、それは忠実であることや主への愛の純粋さです。この領域において僕はまだ訓練途上なので多くは語れません。しかし、この領域が僕が取り扱われるべきところであるというところまでは現時点ではわかっています。