感情は中立的なもの
僕は未だに自身の「感情」の取り扱いについて正解をもっていません。感情は中立的なものであって悪いものでもいいものでもないと思っています。しかし、信仰的側面から考えるなら、感情は時に信仰の邪魔をすると考えています。
例えば、集会などで恵まれて一時的に高揚感を味わったりする場合があるとします。その際、霊的に恵まれている一方で多分に感情にも大きな影響を与えている場合も多いと思います。その証拠に集会が終わった翌日から「何も変わっていない」「いつもどおり」ということがあるのではないでしょうか。少なくとも僕がこのケースが多かったです。
刺激主義者
なぜそのような信仰になっていたかというと僕が若い頃は感情の赴くままに生きていたからです。僕はもともと右脳の働きが強く、非常に衝動的で喜怒哀楽が激しいという資質をもっていました。あらゆるものを通して五感を刺激することで感情の高ぶりを楽しむ、いわば、刺激主義者でした。
しかし、感情には際限はありません。与えられている刺激で足りなくなったら、また強い刺激を求めるようになるのです。僕の場合は、主に音楽でしたが音楽を聴いていないと安心できないというような状況になっていました。音楽を聴いている時はアガっていますが、聴いていない時は消沈している、というような具合でした。その習慣がそのまま信仰生活にもつながってしまっていたのです。
一日一日は平凡
しかし、そういった経験を重ねることで、一時的な高揚感を伴う感情主義的な信仰に対して疑問をもつようになりました。その疑問は、これまでの自分の信仰生活の基本であった日曜日一点主義や集会主義から解放されたいと思うようになりました。このブログでは何度も書いているように、平日、時々刻々と主と共に歩み続けるほうが価値があると思うようになったからです。
ほとんどの場合、一日一日は平凡です。感情の高ぶりや高揚感もほとんどないかもしれません。しかし、その中で感情によらず、聖書の御言に立って主と共に歩むことのほうが自分にとってよいと思うようになったのです。
聖霊によるものでなければ
だから今では積極的に音楽を聴くこともほとんどありませんし、音楽に感情をもっていかれることもありません。賛美ですら、時に感情をもっていかれます。むしろ、霊と感情は密接にかかわりあっており、感情が動くことが多いです。それが聖霊によるものでなければ問題がないのですが、過度に感情が動かされることに期待するのであれば、それはまた違うと思っています。
やはり感情は中立的なものであって悪いものでもいいものでもないになりますが、ほどほどに、つきあうというのがいいかなと思っています。