どれだけ自由に使える時間があっても、どれだけ心落ち着く環境に身をおいて、もし、心の中に誰かをゆるせない気持ちが少しでもあるならば、ふとした時にそれ思い出し、その気持にもっていかれることがあります。他のことに夢中になり、一時的には忘却できても、また思い出してしまい、どろどろの負の感情とまではいかなくても、なんだか腹立たしいな、とか思ってしまうと、せっかくの休日も台無しになってしまいます。
そのような気持ちを完全に除去できるサービスがあれば、すごく流行ると思うのですが、今の所、一時的に忘却できるサービスは有ると思うのですが、恒久的に完全に除去するサービスはなさそうです。それこそ、墓場までもっていくか、時間を味方につけて、できる限り完全な忘却にいくまで待つしかなさそうです。
イエス・キリストが在世中、弟子たちに祈りを教えました。
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
ルカによる福音書11:1-4(口語訳)
天の父は御心のとおりに、人間に幸いに生きてほしいと願っておられます。幸いの定義はおいておきますが、その幸いにあずかるには、ゆるすことが必要だとはっきりわかります。しかし、僕には人をゆるせるほどの高尚な人間性は持ち合わせていません。ですから、イエス・キリストの十字架のゆるしにすがるほかありません。そうすると、不思議と、ゆるす心が与えられ、心に平安がやってきます。
改めて、休暇は日数ではなく、心の質だなと思いました。