主の恵みからもれる
最近自分はイエス様の恵みの中からもれてしまっていたと思わされています。その原因は果たして自分の信仰の態度が間違っていたのか?それとも間違ってはいないがそういうところを通るものなのか?そのあたりはわかりません。しかし、僕はこれから書くように主の恵みからもれてしまっていたのです。
それはこのようなものです。ある人がこのように言うのを聞いたことがあります。
「主は私たちが主から離れている時でさえも共にいてくださる」
僕はこの表現は誤解を招くと思っていました。というのも、このように受け止めてしまったら人は安きに流れるものなので、自分がたとえ主から離れていても主は共にいてくださるから安心大丈夫だと思ってしまうからです。
主はドアの外に立っておられる
ようは「自分は主から離れて好き勝手している。しかし、主は共にいてくださるからいいんだ。」という理解です。僕はこの理解に対して違った考えをもっていました。それは、「主が共にいてくださることは変わらない。しかし、主はドアの外に立っておられる。自分は部屋の中で好き勝手してもいいのか?いや間違っている」というものです。
僕は主眼をここに置いていました。つまり、主が共にいることに安住するのではなくて、「自分は主と共にいたいと思っているのか?」という点です。ようは、喜んで主体的、能動的、自主的にドアを開けて主を家の中にお迎えしているか?というところこそが大切だと思っていたのです。
少しの疑いが
これまでブログでもこのように書いてきましたし、今もその考えは変わりません。しかし、僕が今直面しているのは、なんと僕自身が喜んで主体的、能動的、自主的にドアを開けて主を家の中にお迎えする気がないという状況にあるということです。その原因はわかっています。
僕の中でここ一か月で非常に心が痛むことが起きました。僕は信仰によって、御言によって乗り切っていると思っていました。しかし、実は内面の少しの疑いが僕の信仰をむしばんでいたことに気が付きました。
主であってももう入ってこないでそっとしてほしい
この試練の中で僕は心の中で「結局、主の奇跡は聖書の世界の中だけ」とか「主は災いを下される」とかそのように思ってしまっていたのです。それは自分の中でも意外だと思う主に対する態度でした。そうして、その気持ちを放置していたらいつしか僕は家の扉をしめ切ってもう誰も入ってこないでくれという状態になっていたのです。主であってももう入ってこないでそっとしてほしいとさえ思っていることに気づいたのです。
明日に続けます。