0893_自分の重荷はイエス様に負ってほしいけど、イエス様の涙や痛みや苦しみには関わりたくないと思っている人

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神の御心を知るということ

おそらくクリスチャンだったら、誰でもイエス様の心を知りたいと思っていると思います。なぜなら、それこそがクリスチャンが知りたがっている「神の御心」だからです。そして、神様の愛もただ単に知るだけでなく体験もしたいと思っていると思います。

それ自体は健全な魂の欲求だと思います。しかし、僕は自分を顧みるに結局自分が知りたいのは「居心地のいいイエス様の心」だったり「僕にとって喜ばしい神様の御心」だったりと自己中心的で限定的であることが多いと思ったのです。

イエス様のくびきを負う

実際、イエス様の心や愛を知るということの大前提は、イエス様のくびきに繋がっているということです。それは、きっとすべてが良いと思われることじゃないかもしれません。時には自我が激しく反抗したり、肉が嫌だということもあると思います。具定例を挙げると、あの人が悪いのに僕が謝るとか、人の失敗を覆って弁護するなど自我が嫌だと思うこともあるかもしれません。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイ:11:28-30

僕はこれまでこの御言を自分が疲れた時とか疲弊している時によく暗唱していました。しかし、この御言の本質はイエス様とくびきを共にすることです。つまり、イエス様がもっておられる悲しみや苦しみや喜びも共にするということなのです。

くびきを負う喜びと特権

もちろん、それは決して人をしんどくするようなものではありません。むしろ、それが人に安らぎを与え、心に喜びを与えてくれるのです。なぜなら、神様は自分の心を知り、イエス様が涙を流す時に共に流し、イエス様が喜ぶ時に共に喜ぶ人を求めておられるからです。

これまで僕は幼稚な信仰者だったので、自分の重荷はイエス様に負ってほしいけど、イエス様の涙や痛みや苦しみには関わりたくないと思っていました。しかし、これからは、下僕として神に仕える者としてイエス様の涙も痛みも悲しみも共に味わい、イエス様と共に生きていくことを選ぼうと思います。

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