1317_クリスチャンとして最底辺

高慢になっている

今朝祈っていた時にこのように示されました。

「あなたは仕事においても、家庭においても、教会においても、高慢になっている」

確かにここ数日思い当たるふしがありました。善をなすべき時に行動できなかったり、仕事でも操作がうまくいかないと自分しかいない部屋で「もうなんやねん!」とぐちぐち言いながら仕事をしていたからです。子供の態度に腹が立ってしまったりということもありました。

クリスチャンとして最底辺

教会においても、過去の奉仕は神様の助けによってできていたのにも関わらず、「自分はあの人と違ってよく祈って奉仕ができている」と高ぶっていることがあると思わされました。僕はこういう自分が本当に情けなくてつらいです。客観的に自分を見てて気持ち悪いし、クリスチャンとして最底辺だなと思います。

仕事でも神様の助けを必要としていますが、教会の奉仕はもっと神様の助けを必要としています。もっとというよりも、神様の助けなしでは遂行できません。なぜなら、教会の働きは福音宣教に直結しているからです。福音宣教は神様が人を通してなされるわざです。

だから、教会の奉仕をする前にはこのように祈ります。

「奉仕をしたあとに僕が高慢にならないように。あなたの栄光を横取りすることがないようにお守りください。」

イエス様と共に歩もうとしていない

しかし、僕が自身に対して絶望的に感じるのが、たとえ、奉仕が終わって1日や1週間くらいはへりくだっていることができたとしても、ふとした時に過去の栄光を僕が横取りして、あたかも自分の能力や祈りによってそれができたのだと思ってしまうことです。

その原因はどこにあるのでしょうか?それはここ数日のブログにも書きましたが、僕がイエス様と共に歩もうとしていないからです。

すべてのすべてにおいてへりくだられたお方が共におられるのなら、僕も同じ心になるはずです。しかし、僕は自らの選択で、へりくだってイエス様と共に歩もうとしないことがあるのです。

自分のやりたいことを優先する生き方

では、なぜ僕はイエス様と共に歩もうとしないのでしょうか?それは僕が自分のやりたいことを優先する生き方をしてしまっているからです。言い換えれば信仰の戦いのない楽な生き方でいいやと思ってしまっているからです。

ダビデは戦いの前線から退いて慢心した時に大きな罪を犯しました。それは僕も同じです。もし、信仰の戦い、救霊の戦いに参加することを拒み、常在戦場の意識から安逸の場所へと流れていくのであれば、イエス様からは離れてしまいます。

戦いの先にある大きな喜び

信仰の戦いとはつらい戦いをして終わりじゃなくて、戦いの後には何にも比べることができない大きな喜びが心に溢れます。戦いはつらいから不戦敗でやーめたと思うことなく、戦いの先にある大きな喜びを望みつつ生きたいと思いました。

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