いい教え
自分が恐ろしいほど実践できてないことはわかっているのですが、聖書の言葉にしても、様々な自己啓発本にしても、なんとなく「自分はできているだろう〜」と思ってしまう現象は一体何なんでしょうか。もしかしたら、正常性バイアスが働いているのかもしれません。あるいは、本能的な自己弁護が発動しているのかもしれません。
正常性バイアスとは、予期しない事態にあったとき、「そんなことはありえない」といった先入観や偏見を働かせて、「事態は正常の範囲」だと自動的に認識する心のメカニズムのこと。
例えば、聖書の言葉一つとっても、「主を愛すること」、また「キリストが僕を愛してくれたように周りの人を愛すること」など最重要項目ですらできていません。耳にタコができるとるわ!とでも言うように、サラッと読んでしまうことがあります。御言に向き合わずに、咀嚼も内省もせずに、「イイオシエダナー」くらいに留まっているのかもしれません。
いい教えを聞くだけの場合
聖書の言葉は聞いて実践しなければ、砂上の楼閣そのもので、その信仰は非常に脆いものになります。これはイエス様が山上の垂訓で最後に語られた御言葉です。教えを聞いて実践する人こそが、「岩の上に家を建てた者」だと記載されているのです。
ただ、聖書の言葉にしろ、様々な自己啓発本にしろ、その語られている内容は、徳といわれるもの、あるいは人の資質的な側面に関わるものが多く、実践できているかどうかの具体的な指標がわかりにくく、なかなか、内省だけでは把握しきれてないことが多いと感じています。
例えば、自分では人に親切にできているだろうと思っていても、他の人は全くそうは思っていない可能性は往々にありえます。自分のことは意外に自分ではわかっておらず、他者との関わりや他者からのフィードバックによって気付かされることが多いからです。
できているかできてないか知りたい場合
他者との関わりにおいて、もっとも深いフィードバックが得られるのは主との関係のほかないと思います。また、神の言である聖書の言葉にほかなりません。聖書は鏡であり、自分の真の姿を教えてくれます。神の言葉は、生きていて力があるからです。
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
ヘブル4:12
さらに、主との交わりの中で、主の聖さに触れると、自分がいかに汚れて聖書の基準から遠い存在であるかが明確にわかります。その時に自分にはできていないことがわかるのです。しかし、その神の御心に添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導かれるので、罪が赦されている圧倒的な恵みに覆われるのです。
■ただし、それは真実でない場合が多く、実際は他者との関わりの中で気付かされる場合も多い。
■しかし、それにも限界があり、本当に自分の姿を知りたい場合は祈りと聖書にすがるほかない。
■自分の真の姿に直面する時の悲しみは悔い改めに導き、僕たちを主に近づける。