3パターンの人
数十年間、教会や様々なコミュニティーでクリスチャンとして生きてきた中でわかったことがあります。それは、クリスチャンには3パターンの人がいるということです。
- 変わらない人
- 変わった人
- 変わり続ける人
僕が見る中で、あるいは自身の経験から、③の変わり続けている人というのは間違いなく主を求め続けている人だということです。残念ながら、これは僕ができているというわけではありません。
求めるというのは心の働き
その一方で①の変わらない人というのは主を求めなかった人です。僕はたとえ教会に来ていても求めているとは限らないと思っています。なぜなら、求めるというのは心の働きだからです。たとえ体は習慣で教会に来ていたとしてもそこに心がなければ、たとえクリスチャンであっても変わらないと思っています。これは自戒を込めて書いています。
そして、②は過去主を求めて当時確かに変わったが、今は変わり続けていない人です。これは過去聖霊に満たされて主の深い愛を感じて涙を流すことがあったりしたが、いつしか心が冷めてしまって、今は主を求める生き方をしていない人のことです。そして今僕は②にいるのではないかと思っています。
イメージされる範囲が広い
なぜ「主を求める」ということに焦点を当てたかというと、最近僕自身が「祈る」というよりも「求める」というほうがしっくりくるようになったからです。その理由としては、「求める」という言葉は「祈る」という言葉よりもよりイメージされる範囲が広くなるからです。
たとえば、みなさんは「祈り」と聞いてどんなことをイメージされるでしょうか?僕は主と交わりにおいて、「一人で部屋で正座して祈る」や「教会で当てられた時の祈り」などがイメージされます。その一方で、「求める」が指す範囲は非常に広いと考えています。
主に近づくバリエーションが多い
たとえば、求めるには礼拝が含まれます。礼拝する一つとっても、説教を聞く、感謝する、喜びの声をあげる、声に出して賛美する、楽器で賛美する、御言葉を告白する、跪く、正座する、手を挙げるなどが含まれます。
その他にも、みことばを読む、おぼえる、瞑想する、とりなしの祈りをする、祈祷院に行って祈る、外で一人で祈る、クリスチャン同士の交わりの中で燃やされるなどがあります。
回復させる手段がこれだけある
このように「求める」手段が非常に多いのです。つまり、祈りと比べて圧倒に主に近づくバリエーションが多いのです。この発想はこういう時に役に立ちます。それは、できれば信仰生活では避けたいものですが、仮にもし、霊性が落ちた時に回復させる手段がこれだけあるということです。
今は聖書は開けないという時があったとしても賛美はできるかもしれません。教会に行く気がおきないという時があったとしても兄弟姉妹との交わりで元気をもらえるかもしれません。きっと誰でも最終的には個人的な主との祈りにいきつくと思うのですが、そこまでいくのに主に近づく手段は多くあると思うのです。
だからこそ、「最近祈れていないから祈ろう」というアプローチもいいですが、「最近主を求められていないから求めよう」のほうもいいのではないかと思いました。