1403_僕は主を誇ろう

自分を誇ることをしている?

今日は通勤途中歩いている時にこんなことを思いました。僕はブログで時々自身の証を書いているが、時に自覚しているしていないにかかわらず、主を誇らずに自分を誇ることをしているのではないだろうか?

それは「自分が変わったこと」をいつも主に栄光を帰することなく、自分の努力や能力のおかげだと思ってしまう場合が僕にはあるからです。だから今日は僕は主を誇ろうと思います。

僕は本当にこのように思っています。僕は今、自分にあってはかろうじて、主にあっては恵みによって家庭生活を歩ませてもらっていますが、これは完全に奇跡です。

周りが見ているのは全く別の自分

僕は確かにクリスチャン家庭に生まれて恵みの中を生きてきました。周りの人は僕のことを幸せな人だとおもうかもしれません。しかし僕自身は全く違います。僕は小さい頃から心底自分が嫌いでした。社会に適合できない自分。致命的に人格に難があって人を傷つける。その他、心の中も汚物まみれのような汚れた考えをもっていました。

なぜ周りはそうじゃないのに自分だけがこんなに浮いているのだろう。少なくとも僕だけは周りと考えていることが違うようだと思っていました。

欲望の限りを尽くして生きていた

もし、主の憐れみと十字架の罪の贖い、そして、主が共に歩んでくださるということがなければ僕は今頃、もっととんでもない人間になっていただろうということが確信させられます。

間違いなく自分勝手で人のことなど気にかけず自分の欲望の限りを尽くして生きていたと思います。それは聖書にある記述と全く同じだったと思います。

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
テトス3:3

すべてイエス様のおかげ

しかし、聖書に書いてあるとりの言葉が自分の上にも成就したのです。

ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。
テトス3:4-6

冒頭の疑問に戻ります。

「僕は主を誇ることができているのだろうか?」

僕が変わることができたのはすべてイエス様のおかげです。僕が今生きることができているのはすべてイエス様のおかげです。僕が存在することを赦されているのは、イエス様の十字架のおかげです。

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