0758_豊かさの種がないといずれ心は枯渇する

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主と過ごす一人の時間

昔は豊かな精神生活を送るためには相当時間、ひとりの時間が必要だと感じていました。特に中国に3年いたときは、仕事の授業以外はほぼだいたい一人だったので、自分が理想だと思っていた生活をすることができました。

一人のときは、聖書を手放さず移動のときも食事のときもボロボロになるまで読んでいました。そして、いつも賛美を聴いて賛美をしていました。そして、例えばカフェや公園など一人になれる場所で、聖書を読んで御言を覚えるのが至福のときでした。

ただの一人の時間

しかし、帰国後はそういった生活からはほど遠くなってしまいました。まず、未経験からスキルを常に伸ばし続けないといけないという強迫観念にも似た気持ちからできる限りスキルを上げることに専念しました。それによって、聖書に親しむ時間が極端に減ったのは事実です。

そして、結婚生活や育児が始まると、スキルを上げる時間すら限りなくなくなるようになりました。最初はそういった変化に内なる僕は抵抗しましたが、徐々に、今大切なことは何か?今時間を使うべきことは何か?を考えた時にスキル向上の時間の優先度はかなり下がりました。

一人の時間を注ぐ豊かさ

そういった自分の時間がなくなる中で、豊かな精神生活を送るためには必ずしもひとりの時間は必要ではないと思うようになりました。もちろん、ひとりの時間があるにこしたことはありません。しかし「今すべきことをすること」は、結局すべての豊かさにつながるとわかったからです。仕えることや試練を通して品性が練られることは、心の豊かな生活に直結しているのです。

だから今は以前のように自分のひとりの時間がなくても、何も思わないようになりました。むしろ、心の豊かさは誰かに仕えることや時間を捧げる時に与えられるものだとようやく気づいたからです。

前提は豊かさの種

そして、今の生活の課題となっているのが、そういった環境において、主との二人っきりの時間の回復することです。さっき書いたことと全く真逆のことのように思えますが、やはり主との時間なしには心の平安は与えられないからです。

うまくかけないのですが、このように理解しています。確かに自分の時間を誰かに捧げる時に確かに心は豊かになります。しかし、それは豊かさの種をもっているからこそ、育つのです。その豊かさの種は主との交わりの中で与えられるものだと思っています。

もし、豊かさの種がないならば、それが育つすべがなく、心は枯渇してしまうでしょう。だから、主との祈りの時間が何にも勝って大切なのです。

おっさん
■種から豊さの種をいただこう

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